ロヒンギャ問題、英国はミャンマーをいかに統治したのか

ミャンマーのロヒンギャ問題でアウンサンスーチーが責められているが、もともとこの問題の原因はイギリスが植民地時代に行った政策に原因があるとも指摘されている。では、イギリスは過去にどのようにミャンマー(旧名ビルマ)を統治したのか?高山正之氏が著作で簡潔にまとめている箇所があるので引用して紹介したい。

第三次英緬戦争(1885年)で英側が繰り出したのは砲艦一隻。それがイワラジ川を遡行してマンダレーにある王城を落としに行く。

アユンバヤ朝のティボー国王の軍隊はそれを阻止するべく、英砲艦を岸から攻撃した。四人のインド兵を殺したものの、三百人ほどの戦死者を出した。つまり完敗した。

マンダレーに着いた英印軍は王城を攻め、もともと戦意もないティボー国王は降伏した。これが第三次英緬戦争のすべてだ。戦争と言うより腕力にモノを言わせる欧州のヤクザが暴れ込んだと言った方が適切だろう。

しかし英国はそれを戦争と言い張り、戦後処理を正当化した。どんな戦後処理か。戦史博物館イエ・タット館長が英国のやった四つのステップを解説してくれた。

第一のステップは国王の排除だ。マンダレーに入った英印軍は国王夫妻と王女を宮殿から引きずり出し、「庶民の乗る牛車に押し込め、砲艦に運んでムンバイに島流しをした」。

王子とそれに連なる皇族貴族は処刑した。空になった王城はそのまま刑務所に作り変え、最大限の侮辱を国民に与えた。侮辱はムンバイに流された国王一家にも及び、第一王女バヤはインド人兵卒に報償代わりに与えられた。バヤが生んだ国王の孫娘ツツについて1995年9月16日付けヒンドスタン・タイムスが「貧民街で六人の子供を抱え造花を売っている」と報じた。

国王を追放し、王城を牢獄に変え、王家の血筋を絶やすことは「国民の心の芯棒を抜くことで、国民の求心力を奪う」と館長はその意図を語る。

二番目のステップはそうした国難の下でビルマ人の団結と復興を語る識者、国士の排除だった。英国は六万人の英印軍を動員し、四年間をかけて町の有力者や指導者、その家族まで殺害した。フィリピンで米国がやった大量殺戮に通じる。アウンサンの父もこの時に処刑されている。

第三のステップは敬虔な仏教徒であるビルマ人の国を解体することだった。そのためにイスラム教徒のインド人を年間十万人単位で導入し、さらに華僑を入れ、ビルマの周辺山岳地帯に住んでいたモン、カチン、カレン族を山から下し、キリスト教化して都市に住まわせた。結果、僅か二十年でビルマは多民族多宗教国家に作り変えられた。

そして最終の第四ステップが宗教と民族による分割統治。この段階でビルマの経済は華僑が掌握し、金融はインド人が、警察、軍隊は山岳民族のモン、カチンが当たり、ビルマの主人だったビルマ族は最下位の小作人に落とされた

宗教間の軋轢もインドやパキスタン並みに深刻化した。1930年代にはマンダレーでイスラム教徒と仏教徒がぶつかり三千人の死傷者を出し、英国を喜ばせた。(引用元:高山正之・奥本實「なぜ大東亜戦争は起きたのか?」。太字や色字による強調は引用者による)

ロヒンギャの一部は、第三のステップとして行われたインドからやってきたイスラム教徒だ。

この英国によるビルマ統治のやり口は残虐でひどいが歴史問題としてほじくり返されることは少ない。ドイツや日本のような敗戦国の行為であれば針小棒大に突き回されるのと好対照である。

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