人の不幸は蜜の味だけじゃない

人には応報感情があるので、憎たらしい他人の不幸は喜ばしいものである。調子にのっていた人間がつまづいたり、大金持ちが一夜にして転落したりすると報復欲が満たされる。

しかし他人の不幸の効用は、応報感情に基づくものだけなのかというと違う気がする。鈴木傾城氏が「デリヘル嬢と会う2」を最近出版された。

日本のデリヘル嬢と会って話を聞いて書いたエッセイをまとめたものである。

鈴木氏の興味は成功しているデリヘル嬢よりもむしろ失敗しているデリヘル嬢、社会の底辺にいるデリヘル嬢に向いている。わざと格安のデリヘルから人気のなさそうな女性を選んで、女性を観察したりしている。

正直、よくそういった底辺層への興味関心が続くものだなと思ってしまう。というのも、鈴木氏の著作は、東南アジアを舞台にした初期の作品からずっと社会の底辺層とか地獄のような環境に生きている人間に視線を向け続けているからだ。

鈴木氏は地獄のような環境に置かれた人間の立場を観察し、自分がそういう環境に置かれたらどう感じるかを反芻することで、自分の生の確かさを再認識してきたのではないか?

かつての日本(1980~2000年くらい?)には、現在の中国や北朝鮮のような脅威がなかったし、経済にもまだ余裕があった。危機や敵が存在しない世界にいたことで却って自分の生存をはっきり認識できなかったのではないだろうか。

森の中を歩いていて危険な動物に遭遇した状況を想像してみてほしい。がさっと音がして、気がついたら熊が立っている。「あ、俺死んだかも」と思って固まっていると、熊は何もしないで立ち去っていく。この後、「危なかったー、俺、生きてる。死ななくてよかったー」と安堵し、自分の生を実感できるはずである。アドレナリンがどばっと出た後、それが引いて安心感に変わる快楽である。

不幸な人間を見て、自分がその立場に置かれたら?と想像することにも、「熊に遭遇したあと助かる」ような心理的効果があるのではないだろうか。猛烈な不安感からの安心感、生きている実感を強く認識できる喜び・・。

「デリヘル嬢と会う」の元になった文章はブラックアジアに書かれているが、もう一方の鈴木傾城氏のブログ、ダークネスでは日本が直面する危機に対して警鐘が鳴らされている。中国、北朝鮮、日本人を惑わせるマスコミなどについて書かれている。危機を認識して啓蒙することと、他人の不幸について関心を抱くことには関係がありそうである。どちらも脳を興奮させる物質が出る。

ともかく他人の不幸には応報感情が満たされる以外の効用があると思う次第である。