先祖供養をしたら家庭が不和になった!

お盆も近づいてきたので、先祖供養とか幽霊について書こうと思う。

最近、怪談やオカルトエッセイを読んだりしている。大学生の頃は、稲川淳二の怪談が好きで、氏の怪談本を収集していた。

しかし元々霊感があるわけでもないので、社会人になって忙しくなるとオカルトのことは忘れてしまった。

怪談本を収集していた頃から20年近くが経ち、某市の公園の近くの家から、今の家に引っ越したら、家の中に幽霊がいるのか子供が怖がりになってしまい、再び心霊現象などに思いを馳せるようになった。それで改めて怪談やオカルト本を読んでいるのである。

参考記事:公園のそばに住む苦しみ

今住んでいる家は、部屋が多数あって、そのうちのいくつかは子供から恐れられている。怖い感じがするそうである。私も夜一人でその部屋で寝るのはちょっとつらい気がする。

娘が夜中にトイレに起きて、私の顔のようなものが宙に浮いているのを見たと先日言い出して、子どもたちの臆病さはさらに昂進してしまった。

心霊現象などが物理現象として本当にあるのかというと、私はあると思う。まだ現代の物理学がそれらを把捉できていないだけだと思う。物理の本を読むと、世界についていろいろなことがまだ分かっていないことが分かる。超弦理論では世界は十次元から成っているそうだが、空間と時間以外の六次元がどのようなものであるかはわかっていない。宇宙の大部分を構成する暗黒物質や暗黒エネルギーについてもわかっていない。

物理の研究がこういった未知の分野に進めば、いずれ心霊現象についも解明され、教科書に心霊現象の公式が載ると思う。

さまざまな霊能者(!)がさまざまな事を語っているが、心霊現象について大筋では意見が一致している点も心霊現象の実在の信憑性を高める。霊はこの世に執着を残した思念であるとか、その執着を解ければ霊は成仏してこの世を去るなどの話である。

そして彼らの多くは先祖供養はしたほうがいいと言う。

先祖供養をしたところで実害はないのだから、もしかしたら存在するかもしれないデメリット(霊障?)を避けるために、先祖供養をするのは合理的な選択だ言うことができる。

「鬼神を敬してこれを遠ざく」と孔子は言った。先祖供養を行うのは、鬼神に近づいているようなものだと思われるかもしれないが、適度な先祖供養は、存在するかもしれない害を防ぎ、健康な日常生活を送るために行うわけであるから、まさしく「敬して遠ざけ」ているのである。

そうは言いつつも私は20年以上墓参りをしていない。

しかし、そうなる前の中学生の頃、私は先祖供養に溺れていた。

小学生を卒業する頃から精神が不調をきたしているのを感じた。中学入学後はそれがさらに進んで不安感が常にまとわりつくようになった。不安感の原因は、私の体内・脳内の変調にあったのだろうが、私はそれを先祖供養不足のせいだと思いこんでしまった。常に心中に存在する不安感や恐怖心が、その原因を外に探し求め、先祖供養に飛びついてしまった。

六占星術の細木数子が先祖供養を勧めていたり、当時は人気だった宜保愛子が先祖供養を勧めていた。私の家には仏壇があり、祖父母が毎日供え物をし、線香を上げていた。月に一度は僧侶が念仏をあげにきていた。町外れの山中には墓があり、お盆には墓参りに家族が行っていた。

つまり私の家は平均的な先祖供養を行っていた。それなのに私は先祖供養について至らぬ点があることが不幸を呼び込むのだと思いつめてしまった。その至らなさとは、例えば、墓の形が、細木数子の推奨するようなものではないとかそういうことだ。

そこで私は祖父に墓を建て直すように談判した。墓を建て直すとなると百万円以上かかるわけだし、それを行わなければならない実際的な理由はなかったのだから、当然祖父は私の申し出を断った。しかし、強迫神経症的に先祖供養について考えていた私は諦めずに何度も交渉をした。祖父から「狐憑きか、お前は」と罵られた私は、これまた何がきっかけだったか覚えていないが、自分は心の病気なのではないかと気づきだした。

田舎なので精神医学の本といえば、フロイトやユング、加藤諦三のものしかなかったが、私は自分が心の病気だと認めだし、関心は先祖供養から心理学に移った。

先祖供養熱が冷めるまで、私は朝夕、仏前で念仏を唱え(当時は般若心経を暗記していた)、ほぼ毎日、山中にある墓場まで行って、清掃をし、お参りをした。どれくらいの期間続けたか忘れたが半年以上はほぼ毎日墓参したと思う。学校で部活をしてから行くのだから、時刻は夕方で、薄暗い墓地には私しかいなかった。

今、その光景を思い描けば、まさしく小さな狂人である。祖母に水子がいたことを聞き出した後は、それを供養していないのが悪いと指摘したりしていたから、本当に迷惑な狂人である。

しかし先祖供養熱が冷めた頃になって、祖父は墓をもっときれいな墓地に移し、新築することを決意した。その間、どのような心境の変化があったのかわからない。

墓のデザインは、私が主張していたような細木数子推奨のものが採用され、ピカピカのものが出来上がったが、上述したようにその頃には先祖供養熱は冷めていたので、新築後、数度墓参りをしただけで、それ以来20年以上私は墓参していない。

これが、世に出ている怪談エッセイなら、私の墓参りや、我が家の墓の建て直しが私の心の病を治したりして、不思議なご利益が語られるはずだが、私にはそういったことはなく、それから十年以上、私は平均的な人間よりも不幸に暮らした。アルコールに溺れ、警察の厄介になり、職を転々とし、心は粗暴で落ち着かなかった。私の先祖供養騒動は、不和な家庭をさらに不和にした。

狂信的な先祖供養ではなく、正しい、適度な先祖供養だったなら、結果が違ったのだろうか?

何にせよ先祖供養で身がひらけることなどありはしないと思っておくのは大切である。様々な試行錯誤が私の生活を少しずつよくしていったが、霊的な助けを感じたことなど一度もなかった。

私が大学生の頃、祖父が没した。親から連絡があり、葬式に来るように言われたが、ちょうど私は発熱して葬儀には行けなくなってしまった。ただの偶然、不摂生がたたっただけかもしれないが、私の事を嫌っていた祖父が霊的な力を使って、私を葬儀に来させなかったのかもしれない。私が体験した霊体験らしきものといえば、これだけである。

それでも久しぶりに墓参りに行ってみようと考えている私は心が弱っているのだろうか?成長したのだろうか?

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする