フェイスブック、ユーチューブ、アップル、スポティファイ等の錚々たる顔ぶれにアカウントを削除された男、アレックス・ジョーンズ。彼が運営するサイト「Info wars」はそんなにひどいものなのか?これだけSNSに忌み嫌われると逆に興味が出てくる。
英語力とアメリカ社会についての知識不足から、氏のサイトの主張が変なのかどうか判断できないが、試しに読んでみた「IS CULTURAL MARXISM AMERICA’S NEW MAINLINE IDEOLOGY?」という記事はまともだった。どんなことが書いてあるか、ざっと訳してみたい。
「文化的マルクス主義は、アメリカの新しい主要イデオロギーか?」
この理論の主張は、社会主義革命の背後にいるのはプロレタリアートではなく、知識人だということだ。
労働者の運動からマルクス主義がほとんど姿を消した一方で、マルクス理論は、今日において、文化施設やアカデミズムの世界やマスメディアで隆盛を誇っている。この「文化的マルクス主義」はグラムシとフランクフルト学派にまでその源を溯ることができる。マルクス主義の理論家は、プロレタリアートが革命の主体として期待されるような役割を果たさないことを理解した。それゆえ、起こるべき革命のために、革命運動は文化的リーダーに頼らねばならなくなった。既存の文化(主にキリスト教徒のものだ)や道徳を破壊し、混乱した大衆に共産主義を新しい信条として受け入れさせるためにである。この運動の最終目標はマルクス主義知識人が最終決定権を持つ世界政府の樹立である。この意味において、文化的マルクス主義はロシア革命で始まったことの続きである。
レーニンとソビエト
レーニンの主導下、ロシア革命の首謀者らはロシアでの成功を世界革命の最初のステップだとしかみなさなかった。ロシア革命はロシア人によってなされたのでも、プロレタリアートによってなされたのでもない。1917年、ロシアの産業労働者は労働力の一部でしかなく、大部分のロシアの労働力は貧農で構成されていた。ロシア革命は労働運動の結果ではなく、プロの革命集団によるものだった。ボルシェビキ党の党員や、最初のソビエト政府とその圧政的な組織を詳細に見れば、ソビエトの革命がロシア人民を皇帝から解放する企図でなされたのではなく、世界革命のための発射台にロシア人民が供されたのだとわかる。
第一次世界大戦の経験とその余波は、「革命の原動力としてのプロレタリアート」というマルキストの概念は幻想だと明らかにした。ソビエト連邦を例にすると、社会主義は独裁抜きには機能しないのが見て取れる。これらの考察は、社会主義を成し遂げるには、別の戦略が必要なのだという結論にマルキストの理論家達を導いた。共産主義者の著述家たちは、社会主義における独裁政治は、偽装されなければならないという考えを広めた。社会主義が成功する前に、既存の文化は変化させなければならない。文化の操作は、政治の操作に先立つのである。
文化的な操作と政治的な操作は連動して起こる
文化を操作しようとする新マルクス主義者達の努力は、個々人の蔵書の変化として表れた。数十年にわたって、いわゆる政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)が存在感を増すのと同時に、アメリカ政府は膨大な抑圧的な手段を手に入れた。多くのアメリカ人が、2001年にブッシュ政権が宣言した非常事態法が、いまだに有効になっていることに気がついてないようだ。同じ年に、9・11が愛国者法への道を開いた。フリーダム・ハウスが格付けするアメリカの自由度指数は、95点から、2018年には86点に下がった。
道徳の腐敗
文化的マルクス主義者が人々を支配する方法は、人々を道徳的に堕落させることである。これを成し遂げるために、マスメディアと公的教育は啓発するのではなく、混乱させ誤導する。メディアと教育機関は、人々を他の社会的存在と対立するように仕向ける。集団のアイデンティティがより固有のものになっていく一方で、被害者のカタログと抑圧の歴史はさらに詳細になっていく。人々に認識される抑圧の被害者になることは、社会的ステータスを得ることであり、特別な手助けの権利を得ることでもある。
社会正義への需要は終わりのない支出を生み出す。それらの支出は健康や教育、老人福祉、それに貧しかったり、迫害されていたり、抑圧されている人(それが真実であれ、想像上のものであれ)のために不可欠だとされる。この領域の終わることのない支出の洪水は、国家財政を傷つけ、財政危機をもたらす。そして今度はそのことが、新マルクス主義者が資本主義を難詰する材料となるのである。
政治も、メディアも、司法も、現在遂行されている新しい終わりのない戦争のために立ち止まることはない。それらは、麻薬戦争であり、高血圧に対する闘争であり、終わりのない肥満との戦いだ。人種差別主義者、外国人差別主義者、反イスラム教徒など、敵のリストは毎日成長していく。この運動とはつまり政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)であり、個人が自分の意見を持つことに対する戦争である。人々が不快な表現を我慢させられる一方で(特に芸術の領域で)、言葉狩りと思想統制は毎日進んでいく。人々の意見は、許容されたわずかな範囲を超えてはならないのである。人々が貧困について議論している間に、急進的な意見の多様性はこっそりと成長しているのだ。
文化的マルクス主義者は、偽善的な倫理に基づくデタラメな基準という手段で、社会にアイデンティティ・クライシスをもたらす。その目標は、最早プロレタリアート独裁ではなく、文化的マルクス主義者が最高位に就くポリティカル・コレクトネス独裁である。新たな位階の僧侶として、新世界の守護人は社会のあらゆる場所にまで権力を拡張しようとする。個人の道徳的退廃は、最終的な勝利のために必要なステップなのだ。
知識人のアヘン
新マルクス主義の主な信者は知識人らである。結局、労働者は製造過程の経済的実在であり、彼らは社会主義者の約束はでたらめだったと知ることになる。労働運動の結果として社会主義が実現した場所など無いのだ。労働者は、社会主義に加担したのではなく、常に社会主義の犠牲者だったのだ。革命の主導者は、知識人の政治家と軍人だった。作家や芸術家は、記事や書籍、映画、音楽、絵画などによって社会主義体制の残忍さを覆い隠し、社会主義に科学的、審美的、道徳的な装いを施した。社会主義者のプロパガンダにおいては、新体制は公平で生産的に見えさえした。
文化的マルクス主義者らは、いつの日か彼らが権力の単独の保持者となり、大衆にどのように生き、何を考えるべきか決定できるようになると信じている。しかし、新マルクス主義知識人は驚くことになる。本当に社会主義が到来する時、知識人による独裁を彼らは良いものだと思っているが、実際には、ソビエトが権力を握った後に起こった事柄と変わりはないだろうからである。知識人達も犠牲者のリストに入るだろう。結局、これは知識人の最初の革命の試みであったフランス革命と似たようなものだ。多くのギロチンの犠牲者は、革命を早期に支えた、卓越した知識人だった。ロベスピエールもそのうちの一人である。
結論
マルクスの信条に反して、歴史は事前に決定されていない。革命は進行しているものの、完遂には程遠い。行先を変える時間はまだある。革命運動に抗するために、人々は文化的マルクス主義の本質的な弱点を注記すべきだ。新マルクス主義者が古典的なマルクス主義を変更し、基本的な教義を消したことで、運動は過去の社会主義よりももっと夢想的なものになっている。
新左翼の後継者として、現代の民主的社会主義者は矛盾する考えの寄せ集めを喧伝している。集団の軋轢を促進する者としての運動の特徴から、新マルクス主義は独裁に必要だった一貫した政治的権力を得るには不向きである。しかし、これは新マルクス主義が社会にインパクトを持っていないという意味ではない。逆に、その本質的な矛盾した性質から、文化的マルクス主義のイデオロギーは、現代西洋社会のほとんど全ての分野に浸透し、危険なほど巨大な割合を占めている深い混乱の源なのだ。
(意訳的翻訳終わり)
この記事以外の記事がどのようなものかは、まだ見ていないが、この程度の「陰謀論」ならば、一般的で、ソーシャルアカウントを削除するようなものではないと考える。この記事にかかれていることは、歴史修正主義の立場に立つ歴史を学んだ、保守の人間には常識的な事柄だ。
多くのジャイアントテックがアレックス・ジョーンズ氏のアカウントを凍結したのは、習近平が「中国の夢」などと言い出したのと同レベルの失敗だったのではないだろうか?デタラメな主張なのであれば、誰も信用などしないから放っておけばよかったのである。わざわざアカウントを凍結したことで、彼らはアレックス・ジョーンズ氏の主張が一部の人たちの痛い所を突いていることを告白したようなものではないか?