人間が一生の間にこなせるようになったタスクは、昔の人と比べて、数千倍になっただろう。いつの時代の人と比べるか、どのようにタスク量を計るかによって結果は異なるが、私達が生まれてから死ぬまでの間に、過去の人間より多くの事を成しているのは確実だ。
例えば三蔵法師は、支那からインドへ仏教の経典を取りに行き、また支那に帰還したわけだが、それに16年を費やしている。
現代であれば、一週間で終わらせることができるだろう。もしかすると、その経典は電子書籍となって販売されており、クリック一つでダウンロード可能かもしれないし、経典の持ち主がSNSアカウントを持っていて、それ経由で連絡をとってメールに添付してデータを送って貰えるかもしれない。
明治や大正の人は今なら車で2時間で行ける神社の御札を貰ってくる(※講です)のに、往復2週間かけたと近所の老人に聞いた。自動車は無いし、道路も舗装されていないから、自転車と歩きで山を越えて行ったそうだ。しかし今なら余裕で日帰りできる。
江戸時代の伊勢参りは1ヶ月くらいの日程で行われたとか。これでも1日40キロ歩くペースだそうだ。
昭和の人は海外の本を購入するには、注文してから届くまで1ヶ月以上かかったはずだ。しかし今ならアマゾンアメリカのkindle本もダウンロードできるようになっているので、1分で手元に本が届く。
ネットを通じて、諸外国のニュースを今では簡単に読むことが出来る。今の平均的な大人は、落合信彦よりも多くの情報を得ているかもしれない。
他人のセックスを見たければ、簡単に1万人以上の性交動画を見ることができるだろう。
他人に対する呼びかけだって、ネットを通じて多数の人に行うことができる。しかし昭和の時代ですら、自分の意見を多くの人に読んでもらうのは難しかったはずだ。新聞か書籍かテレビかラジオに自分の意見を載せてもらわなければ、大勢の人に意見を届けるのは難しかったはずだ。しかし今ではちょっとした機知があれば、1万人くらいはあなたの意見をネットで読んでくれるだろう。
このように時間当たりにこなせるタスクが昔の人に比べてものすごく増えた。さらに寿命が延びたから、人生50年と詠われた戦国時代と比べて20年以上も長く生きられるようになった。
そのおかげで現代人はものすごく多くのタスク(?)をこなせるようになったはずである。
しかし不思議なのは、このようになればなるほど人生はつまらないものになっているように見えることだ。一体何が悪いのだろうか?
人間を取り巻く環境は変わっても、人間の欲求は変わっていないから、人間の始原的欲求を満たしづらくなった分、現代はつまらないのだろうか?現代では衣食住の欲求は満たしやすいが、性や闘争に関する本能は率直には満たしづらい。あるいは日本人が持つ平均的な子供の数が減ったのがよくなかったのだろうか?
それとも選択肢が増えたのがよくなかったのだろうか?私達の生活には表面上無限の選択肢がある。選択肢の多さが私達を悩ませるのか?
他人の人生が可視化され、成功者と自分の人生を比較できるようになったのがよくなかったのだろうか?
それとも無数のタスクをこなすこと自体がむなしいのだろうか?多くのタスクは無味乾燥としている。
あるいはタスクの試行回数が増えたのがよくなかったのだろうか?一つのタスクを試行して不愉快な目に遭う確率が昔と変わらなくても、試行回数が増えたことで不愉快な目に遭う回数は増えている。ネット等で他人の意見をたくさん見れば、自分と意見が合わないものも多数見ることになる。ネットが無ければ、このような多数の他者意見を見ることはできなかったはずだ。
神仏を身近に感じない生活が悪いのだろうか?私達の生活にはもっと霊性のエッセンスが必要なのか?
他者との愛情の交歓が減ったのだろうか?面と向かって親密に人と話す機会が減ったのだろうか?
物事をたくさんこなせば新鮮味が減るので、どんどん後半生がむなしくなるのだろうか?なぜこんなに人生は長いのか?
たくさんのタスクをこなせるようになった人間が幸福や満足から遠ざかっているように感じるのはなぜなのだろうか?
みなさんは戦国時代や江戸時代、昭和の時代の人たちより生き生きと生きている実感があるだろうか?私にはない。