「戦争するくらいなら、殺される方がまし」は崇高な態度なのか、答えはバガヴァット・ギーターにある

日本の極端な平和主義者、憲法9条信奉者の中には、

「殺すくらいなら殺される方がまし」

という主張をする人がいる。例えば森永卓郎氏だ。探せば他にも大勢いるだろう。

こういった主張をするのは自由だ。しかしこういう態度は道徳的に崇高なのだろうか?戦いの場において、戦わない。相手が一方的に悪くても、自分が殺されることを選ぶ、こういう態度は称賛されるべきなのか?

その答えはインドの聖典バガヴァット・ギーターの中にある。バガヴァット・ギーターでは、インドの神々がクル軍とパンドゥ軍に分かれて戦う。両軍の間には、血縁や姻戚関係があり親交がある。

なので、アルジュナという神はこの戦いが無益ではないかと考え、戦うのをためらう。アルジュナはこのように言う。

「血縁の人々を殺していったい何の益があるのでしょうか。私は勝利も領土も幸福も欲しくない」「王権と領土と一族の繁栄と、また自らの生涯を確保するために、師弟、父子、祖父と孫たち、叔父たち、義父、義兄弟、その他親戚の者たちがそれぞれの命と全財産を賭して、私の面前で戦おうとしている。私は彼らに殺されても、彼らを殺したくないのです。」「罪深い者らを殺せば、その穢れは我らにかかる。」「貪欲に心を奪われたとはいえ、一家一族を全滅させたり、親しい友人同士が殺し合うほどの過誤があったとは思えまえん。そのことを知っていながら、なぜこの地で我らは戦争などをしなければならないのですか?」

アルジュナは戦場において、武器を打ち捨てて座り込んでしまった。それに対して、クリシュナが答える。

「君は博識なことを話すが、悲しむ値打ちのないことを嘆いている。真理を学んだ賢い人は、生者のためにも死者のためにも悲しまない。」「私も、君も、ここにいる全ての人々もかつて存在しなかったことはなく、将来存在しなくなることもない。始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ」「一切万有にあまねく充満しているものは、決して傷つかず、壊されもしない。たとえいかなる人でも、方法でも、不滅の魂を破壊することはできない」

「全ての生き物は永遠不滅であり、その実相は人智によっては測り難い。破壊されうるのは肉体だけである。故にアルジュナよ、勇ましく戦え!」「生物が他を殺す、また殺されると思うのは、彼らが生者の実相を知らないからだ。知識ある者は自己の本体が、殺しも殺されもしないことを知っている」「魂にとっては誕生もなく死もなく、元初より存在して永遠に在りつづけ、肉体は殺され朽ち滅びるとも、かれは常住にして不壊不滅である」

「このように魂は不生不滅、不壊不滅である。どうして誰かを殺し、また誰かに殺されることがありえようか」「生まれたものは必ず死に、死んだものは必ず生まれる。必然・不可避のことを嘆かずに自分の義務を遂行しなさい」

「武士階級(クシャトリア)の義務から考えても、正義を守るための戦いに参加する以上の善事はないのに、どこにためらう必要があるのか」「武人としてこのような機会にめぐりあうのは、真に幸せなこと。彼らのために天国は門を開いて待っている」「だがもしこの正義の戦いに君が参戦しないならば、義務不履行の罪を犯すことになり、武人としての名誉を失うのだ」

「幸と不幸、損か得か。また勝敗のことなど一切考えずに、ただ義務なるがゆえに戦うならば、君は決して罪を負うことはない。」

クリシュナ神が言うのは、正義のための戦いならば、自分が戦う役目の者であるならば、臆せずに戦えということである。この世界に表れる一時的な肉体が滅んだとしても、その実体(魂)は殺したり殺されることはないのだ。

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