人は実際に経験しないとわからない(この世になぜ悪があるのか)

神が存在するのであれば、世界はなぜこうも残酷なのか?なぜこうも悲しい出来事が多く、不幸が散見されるのか?

人間は様々な歴史を経て賢くなったはずなのに、例えば今でもウイグルやチベットで民族浄化が行われている。そしてそれを多くの人間が知っているにも関わらず、止めることができないでいる。

この問いに対する簡単な答えは、「人は特定の立場に実際になってみないと深く学べないからだ」だと思う。

乞食になってみて初めて、人は乞食としての感覚が深く味わえる。病気になってみて初めて、人は病人としての諸感情を知ることができる。

一般的に言う不幸な立場、被害者の立場、失敗、不運などを経験して初めて、それらに伴う知見を得られる(のだと思う)。知見といっても頭で得られる半端な知見ではなく、いわゆる「腹落ち」レベルの身に刻み込まれるような認識である。

私は株で損をして退場していった人たちを大勢見てきたけれど(実際の知り合いではなくネット上で)、彼らのつらさ、境遇について全く無頓着だったし、自分がそうなるとは全く思っていなかった。しかし、実際に資産を吹き飛ばしてみて、初めて自分がいかに◯◯だったかわかったし、◯◯のありがたみや、これまでバカにしていた◯◯の素晴らしさを知った(◯◯の中には適当な単語を当てはめてみてください・・)。

先日、某途上国に行く機会があって、道端でたくさん乞食を見かけた。しかし、私が乞食を何人見ても、乞食の苦しみというかその全般的な感覚は知りようがない。

乞食にお金を恵む人と、お金を恵まれる乞食のどちらが得な立場なのだろうか?多くの人はお金を恵む側が偉く、善行を施し、精神的に前進していると思うかもしれない。しかし、恵む側にとっては、寄付行為は精神的な負荷が小さいので、それほどの学びを得ることないだろう。逆に乞食の方が何か通常の生活では得られない気づきを得ているかもしれない。

その途上国に行った際、夜はゴーゴーバーという所に入ってみた。酒を一杯飲んだだけで、誰も連れ帰ったりしなかったが、女性を買う側の人と、買われる側の女性とでどちらが多くの学びを得るだろうか?これまた、知らない男に体を売って金を稼ぐ立場にある女性側の方が多くの気づきを得るだろう。

いくら売春婦を観察しても、その境遇から得られる知見を実際に身に染み込ませることはできない(と思う)。

「百聞は一見に如かず」というけれども、輪廻転生は「百見は一経験に如かず」を原則に運営されているのではないか?いくら悲劇を見ても、いくら苦しんでいる人を見ても、それを実際に体験している人と同じ学びや気付きを得ることはできない。実際に自分がその立場に置かれてみて、初めて腹落ちレベルで、存在レベルで様々な事を深く心に刻むことができる。

投資の世界では「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言うけれども、人間が様々に生まれ変わってくる時、やはり人は歴史や観察にではなく、経験に学んでいるのだと思う。

最初の問いかけに戻ると、この世から悪(?)が消えないように見えるのは、一つは私たちが被害者として、辛い目に遭う役柄として、この世に生まれてくることで何かを学ぶためではないだろうか。そして誰かが被害者役をやるのであれば、他の誰かが加害者役を演じなければならない。それゆえに悪に見えるものが存在するのではないか。

とても長い時間をかけて、被害者役をやったり、加害者役をやったりしながら、魂・意識は学びを深めるのではないか。

もちろんこれは、誰かが悪と知りながら悪事を成すことを免罪する意味で書いているわけではない。しかし、現世から悲劇が消えないのは、巨視的に見るとそういうことなのではないか。

青山圭秀氏の著作のどこかに、上のような問いに対して、サイババが「それは恩寵なのだ」というようなことを答えているシーンの描写があった。その描写を転載したいが、見つからない。

2019/6/18追記

上述の記載を見つけたので転載する。

もしも神という存在があるとしたならば、その恐ろしいまでの沈黙は何なのかと、私は考えてしまった。

神は、この国(※インド)が外国から虐げられるのを、見て見ぬふりをしてきた。戦いに際し、インド人たちは理不尽な侵略に対する必勝を祈願し、神々に犠牲供養を捧げたに違いない。しかし、インドは敗れ去っていった。

だれが統治しようと関係はない。豊作であるように、今年も税が払えるようにと、人びとは祈りを捧げた。が、飢饉は容赦なく訪れた。そして、税を払えなくなった農民は土地を取り上げられ、餓死していった。

世界中の宗教は、人間が神に似せて造られた、「神の子」であると教えている。では神さまは、自分の子供たちがそんな目に遭っていても、何ともないのか。自分の名を呼ぶ弱き者たちが虐待されるのを見ても、平気なのか。今、こうしている間にも、神は一体何を考えているのか・・・。

このようなことについて、かつてサイババに質問した人がいた。

「スワミ(サイババのこと)、時間の長短は、あなたの意のままです。なぜ、少しだけ時間を短くしないのですか。人びとは、苦しみにあえいでいます。彼らはなぜ、あんなにも長く苦しまねばならないのですか」

それに対するサイババの答えは、次のようだった。

『それは”試み”、いや、試みというよりも”恩寵”なのだ。苦しむ者には、わたしの恩寵がある。苦しみによってのみ、人は自己の内面に向かい、その探究を始めるからだ。そして、内的に道を追求すること以外に、惨めな輪廻から逃れる術はないのだ』(青山圭秀「愛と復讐の大地」170頁より)。

また、エドガー・ケイシーの伝記(「エドガー・ケイシー物語」)では、彼の母がケイシーに下記のように話したという。

「わたしたちが神に強さをくださいと祈ると、神は困難を与えることによってわたしたちを強めてくださる。勇気をくださいと祈ると、神は危険を与え、それを乗り越えることによって勇気を与えてくださる。何かお願いごとをすると、それを得る機会を与えてくださるの。そして、幸福になりたいと祈ると、信仰がためされる試練を与えてくださるのよ」

シルバー・バーチの教えには下記のメッセージがあった。

物質的な惨事に遭遇すると、人間は霊的なものに目覚め始めるようになります。物的な手段がすべて失敗に終わったとき、ワラをも掴む思いでそれまで試みられてきた制度を吟味し、そこに頼れるものがないことを悟ります。

そこに至ってようやく霊的真理の出番となり、新しい世界の構築が始まります。

コメント

  1. jitian より:

    自分も昔はいわゆる無神論者で、人間は死ぬと肉体の構成元素が分子に還元されると思ってました。というのは、最近でもよくありますが、親が無垢な子供を虐待して死なせてしまったり、また逆に子供が親をバラバラに殺害してしまったり、そのような悲惨極まりない事件があったからです。
    犠牲になった方は何か罰せられるべきひどいことをしたのでしょうか。本当に理不尽でなりませんでした。
    家庭を持ち、子宝に恵まれ少しずつ無神論への傾倒は薄れてきています。
    西洋中世の神学者が、すでにこの世のデタラメさに気付いていて、それを何とか取り繕うとしていろいろな論争をしていたという試みを一つの救いになりました。
    人間は何か精神や信仰の拠り所がないと、その理不尽さに耐えられないのではないかと思っています。

  2. nextir35 より:

    >jitianさん
    そうですね。無神論を抱いたままポジティブに生きていける人は相当強い人で、普通の人にはある種の神の存在なしにはこの世は耐え難いと思います。