「終わりなき日常」は中国が壊した

およそ20~30年前、日本では「退屈」が、「終わりなき日常」が立ち向かうべき障害と捉えられていた。1995年に、新進気鋭の社会学者とされていた宮台真司氏が「終わりなき日常を生きろ」という本を出した当時、「終わりなき日常」という言葉の持つニュアンスに共感できる空気があった。

同時期に鶴見済氏が「完全自殺マニュアル」(1993年)、「人格改造マニュアル」(1996年)を出版し、それなりに受けたのも、倦むほどの退屈に日本の若者が捉えられていたからだろう。

しかしこうした退屈感は気がつけば日本社会から消えていた。その原因は単純に日本人がサバイバルしなければならない状況下に置かれるようになったからだろう。

そうなった圧倒的に大きな要因は、独裁国家中国が影響力を増加させたことだ。掛谷英紀氏は下記のようにツイートをしている。

中国というマジでヤバい存在が、退屈という贅沢な悩みから日本人を解放させた。ウイグルのニュース、香港の状況、台湾の状況。

中国という要因以外にも、経済的な地盤沈下(給与の低下、非正規社員比率の増加、社会保険料の上昇・・)が日本人にサバイバルすることを強制するようになった。

宮台真司氏は退屈な日常に対する処方として「まったり生きる」ことなどを提唱していたが、日本人は今後、安全保障を含む政治に関しても、個人的な経済生活に関しても、「まったり生きる」ことなどできそうもない。

1965年生まれの山岡鉄秀氏がコラムに書いているが、今の若い人は日本が元気だった頃の事を知らないので、「日本の国力はずっと変わっていない」と考えている人が多いそうだ(中年以上の人はもちろん、日本の国力が驚くほど低下してしまったと思っている)。

日本再興を不可能にするジェネレーションギャップの罠

同じように、20~30年くらい前の日本の若者が「終わりなき日常」に悩んでいたなどと今の若者に告げても信じてもらえないのではないだろうか?

あの贅沢な、悩みともつかない悩みに悩んでいた時代が懐かしい。しかし、真剣に生きることを我々に強制する環境下で生きる方がよいのかもしれない。「退屈な日常が続くことにどう対処するか、について悩んで生きてきました」などと死に際に振り返るのも格好悪いからである。