※「猶太と世界戦争」(昭和18年刊)愛宕北山著の164ページから書き写し
※全体の目次はこちらに転記した。
本第二部は、ユダヤの人類殲滅戦としての世界戦争を今次の世界戦争を中心として検討したものである。従ってそれはその世界戦争の一部としての支那事変に関する論考をも含み、全体としては時日の古いものより後に配列されている。時局の進展にかかわらず、これらの諸編に一貫するものが現在にもなお妥当することを筆者は確信している。これらの諸編によって総力戦の本家がユダヤであり、而してそれがその四千年の歴史の当初から実行されてきていることを、我々は自覚しうるであろう。最後の小篇も今後の我々に何ものかを示唆すると思われるので採録した。
ユダヤの人間還元
ユダヤ問題研究根本原則十箇条
第一条
ユダヤ人は有史以来、少なくとも旧約聖書と「タルムード」以来、かの著名な選民思想に生きている。そしてその内容は、エホバの命による世界征服の信仰と、同じくエホバの命による非ユダヤ人動物観とを根本としている。それゆえにユダヤ人にとっては、その世界支配に役立つ限りにおいては、動物としての非ユダヤ人を強圧し、殺戮し、略奪し、搾取することは神命であり、また虚言と詐欺と詭弁も神命である。ユダヤの本質として世界周知の「底知れぬ憎悪」がまた神命に基づくことも自明である。またユダヤ人が非ユダヤ人に対して何らの「責任」を持たないのも同じ理由に依るのである。然してこれらの神命に背く時、ユダヤ人自身がエホバのために殺戮され、殲滅されることになっている。
第二条
ユダヤ人が拝金主義において天下無敵であるが、往々、ユダヤ人が「知力」においても偉大であるとされることがある。しかしユダヤ人のこれら二方面における偉大さが、いわゆるマイナスの偉大さであり、破壊における偉大さであり、悪魔的な偉大さであることは第一条を想起する時、直ちに理解される。「金儲けが上手」ではなく、「詐欺が巧み」なのであり、「頭が良い」のではなく、「嘘がうまい」のである。旧約聖書及び「タルムード」以来、同一事を四十幾種かずつに肯定もし否定もすることを訓練されてきているのであり、しかもそれをエホバの神命として行ってきているのであるから、以上の偉大さは当然であろう。赤色帝国主義理論、桃色法学ないし社会学理論、黒色哲学理論等のあらゆる国境抹殺主義と、世界の金の七割ないし八割の集積とは、同じ本質の二つの方向への発現にすぎない。
第三条
したがって非ユダヤ人にとっては、反ユダヤ主義は単に正当なる自己防衛であるにすぎない。而してもしその反ユ主義が、世界十幾億の非ユダヤ人を暴圧と殺戮と略奪と搾取から救い出し、虚言と詐欺と詭弁とから守る意味を有しうる場合には、それは全く人道的である。世界の言論通信機関を独占するユダヤの宣伝に踊らされて、反ユダヤ主義は少数民族の排斥であるとオウム返しに言う如きは、冷静なる批判力のある非ユダヤ人のなすべきことではない。古今東西、ユダヤ人の集まる所に必ず排ユダヤ現象の生起することを正視せよ。あらゆる場合にユダヤ人のみを正当なりとする立場は、世界支配を目標とするユダヤ人自身のそれとしては意義あるものであろうが、非ユダヤ人の立場としてはこれ以上に無批判にしてまた屈辱的なものはありえないのである。非ユダヤ人自ら事故を獣類なりとし、ユダヤの世界支配に協力することによって人間ユダヤ人の仲間となることを光栄と感ずるのでない限り、かかる宣伝に盲目的に踊って、いわゆる人為的ユダヤ人の仲間入りをしてはならぬ。
第四条
ユダヤの金力と知力とを見て、あるいはそれを恐れ、あるいはそれを利用せよと主張する。しかしこれは二つながらにユダヤの本質を認識せざるところより来るのである。恐怖することは、迎合の場合と同じく、ユダヤを増長せしめる以外に何の効もないことは歴史の証する所であって、いわゆる「人情」などという如きは、この憎悪の民には藁にしたくもないのである。情をかける事によって改悛せしめうるなどという如き甘き感傷にとらわれてはいけない。況やそれを利用しようと言うに至っては、全く言語道断である。これは単にユダヤ人がそれ程甘からずまた頭もそれ程に悪くはないというためではなくて、それが実に盗金と賊品との利用または分配を求めることにほかならないからである。世界に実例が縷々ある如くに、黄金と鉄と石油とに目がくらんで、かかる恥辱に甘んじ、操を売ってはならない。殊に迎合し共謀することによって自己の利益を図ろうとする如きは、ユダヤ人以下に堕せるものと言われても、弁明の余地はないであろう。
第五条
ユダヤ利用は殺人者ないし盗人との協力であるが、反対にユダヤ人によって利用されることもまた身を彼と同列に置くことになるのである。特に注意すべきことは、前条の利用説が多くの場合に、卑賎なる拝金主義ないし唯物論者に見られるのに反して、これは善良なる非ユダヤ人に多く見られる現象であるということである。このうち最も恐るべき場合は、ユダヤの世界攻略のこれも巧妙なる手段としての内面的侵攻である。英帝国においてなしたように、征服せんとする国の主権者とユダヤとが同祖同種族なりとするやり方と、アメリカ合衆国の場合においてなしつつあるように、攻略せんとする国を自由と正義との国なりとして称賛するやり方とは、この場合の最も代表的なものである。そして前の場合には、多くは愛国主義を装う者または国粋主義を自負する無批判者流を利用し、それによって目標国の上層部と愛国陣営とを無意識的なるユダヤの援兵となそうとする。次に後の場合は、現代においてはほとんど世界的に最も時代遅れであり、最も無批判であるところのいわゆるインテリ層に働きかけることによって、彼らを無批判なるユダヤの傭兵としようとするのである。
第六条
戦争と革命とを欲しないならば、殊にユダヤの世界制覇に役立つ以外の意味なきそれらを避けんと欲するならば、万国の非ユダヤ人よ団結せよ。然してユダヤの本質を明らかにし、その策謀を暴露せよ。そして単に黄金帝国主義のみならず、トロッキーの第四インター等に至るまでのすべての国際主義が、意識すると否とにかかわらず、直接または間接に、ユダヤの世界征服の機関であることを確認せよ。あらゆる平和団体、社交団体にして、奇怪なる国際的伝播力を有するものもまた然ることを確認せよ。フリーメイソン秘密結社(主として主権者の側近・外務・政党・軍部を目標とする)ないしロータリー・インターナショナル(主として財界・学界・司法部を狙い、フリーメイソン秘密結社の禁止されている国においてはその代理を勤める)よりオックスフォード・グループ・ムーブメント(主として宗教界に食い入ろうとする)に至るまで、その本質が上述のものなることを知れ。而してそれらの会員は、かなりに上級の者にあっても、特にその会員が国家または社会において上層部に属する者である場合には、結社の真の秘密になんら関与させられていないことを銘記せよ。この謀略の場合にこそ、ユダヤ人の偉大さを認識すべきである。また、あらゆる流派のキリスト教徒もまた、ルッテルの誤訳を未訂正のままに盲信してエホバを「神」ないし「宇宙神」なりと信ずる限りにおいては、上記の秘密結社の会員達と同じく、いわゆる人為的ユダヤ人である。
第七条
ユダヤ問題は結局思想問題である。従ってそれは、自由主義に「自由」ありなどという考え方をする無批判者や、自由主義の発展が赤色帝国主義であることを認識し得ぬ程度の楽天主義者には、その存在さえも理解し得られぬ難問題である。それ故に、彼らがそれを否定し、それに反対することそのことが、すでにこの問題の真実性と重要性とを証明する。あらゆる合理主義者・相対主義者・唯物主義者・利己主義者にとっても、それはその理解を超える。彼ら全てにとっては、この問題を理解することは、否、単にそれの存在を認めることその事だけが、既に彼らの存在を根底まで揺るがせるのである。その理由は、彼らの大部分は、何らかの意味において、前条の「人為的ユダヤ人」であるか、あるいはそれに近似する思想史上の位置を占めているからである。
第八条
ユダヤの本質と歴史に通じない人は、以上の諸箇条におけるごときユダヤ批判に対して、ユダヤ人といえども全部がかかる世界支配欲に生きているのではなく、従ってユダヤ人全部をかように批判するのは不当である、と主張するのが常である。しかしこれは、軍隊において全兵員が統帥本部の計画の詳細に通じていないが故にその兵員は戦闘員ではないとするのと同一の論法であって、「旧約全書」と「タルムード」がユダヤ法師によってユダヤ教会堂においてユダヤ民衆に講ぜられている限りは、たとえ指導的地位にあるユダヤ人の場合のようではないとしても、なお、各ユダヤ人には「本能的」に以上の諸箇条に記述された傾向が存するのである。これは全日本人(時局的便乗の偽装転向者をも含めての赤色人のみは例外とした方が適当であるかもしれない)が、「本能的」に忠君愛国の精神を持つのと正に同様である。
第九条
しからばユダヤ人は人間にあらずして、動物であるか。非ユダヤ人としての吾人の立場よりいえば、ユダヤ人といえども動物ではなく、人間であって、この点においては吾人の立場はユダヤ人のそれと対蹠的である。それゆえに吾人は、この人非人種族もまたいつかはその本来の「人間」としての資格を恢復することを信ぜんとする者である。ただしこのユダヤの「人間」への還元は、次の如き諸条件が完全に実現するまでは絶対に不可能である。
イ、旧約聖書を根本的に改刪し、「タルムード」の大部分を焼却し、エホバ信仰を捨て、ユダヤ法師職を廃し、ユダヤ教会堂を破棄し、加えて割礼を廃止すること。
ロ、少なくとも四分の一ユダヤ人に至るまでの全ユダヤ人が同一場所に集って国家を形成すること。
ハ、而してその世界征服の悪夢に生きた幾千年間と同一の年数が経過すること。
第十条
日本とユダヤとの間には、その本質において、その歴史において、その性格において、その道義において、その人間性と人倫とのあらゆる点において、百八十度、否、三百六十度の差がある。即ち存在の次元が全く異なるのである。それゆえに、日本的原理が世界的に認識されるまでは、ユダヤ人の世界征服の欲望は断絶されることはなく、したがってまた世界に真の平和と正義とはないであろう。しかもその日の以前において、日本とユダヤとの正面衝突は必然の運命であると考えられる。非ユダヤ人とユダヤ人との戦いの序幕戦である今次欧州大戦に続くものは、いかなる形式となるかは別として、不可避的に日本とユダヤとの戦いである。而して真にユダヤ問題を解決し、全人類を「悪」の手より解放しうるものは、八紘一宇の精神を奉ずる日本以外にはないのである。しかもその八紘一宇の精神とは、糞味噌同一視的悪平等人道主義ではなく、前世紀的空想たるユダヤ人東洋人説の如き安価なる感傷ではなく、なんらの根拠なきユダヤ教盲信者の日ユ同祖説の如きおめでたき神話ではなくて、まつろわざる者はこれを討ち平らげるところのものでなくてはならぬ。而してその後においてのみユダヤ某者も「人間」に還元されうる秋が来るであろう。ユダヤの御先棒として「世界戦争」を目指す「人為的ユダヤ人」の群であるフリーメイソン結社支配下の重慶政府を討つことが聖戦であるならば、その本拠を覆滅することがより大にしてより崇高なる聖戦であることは、論証の要のないことであろう。(十六・五)