フランクリン・デラノ・ルーズベルト悪人伝説

最近、渡辺惣樹氏の「戦争を始めるのは誰か 歴史修正主義の真実」と「誰が第二次世界大戦を起こしたのか: フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く」を読んでいた。これを読むと、第二次世界大戦の死者はフランクリン・デラノ・ルーズベルト(以下「FDR」)が存在しなければ相当少なくすんでいたことがわかる。欧州ではイギリスとドイツは戦わなかっただろうし、日米の開戦もなかった。第二次世界大戦後に共産主義国があんなに増えることもなかった。

以前紹介したケント・ギルバート氏の「まだGHQの洗脳に縛られている日本人」には、ルーズベルトはスターリンと親友で二人で世界を分け合おうとしたと書かれている。渡辺氏の著作にはそこまではっきりと書いていないが、FDRが親共的でスターリンにかなりの好意を持っていたのは間違いない。

詳しくは渡辺氏の著作等を読んでもらうとして、FDRがどんな悪事を働いたのか、簡単にまとめておこうと思う。

フランクリン・デラノ・ルーズベルト悪人伝説(ヨーロッパ編)

1932年に共産党のフーバー前大統領とFDRは大統領選で争った。フーバーはケインズ寄りの経済学者の意見を容れて、財政赤字を計上しつつ公共投資を増やしたが、それをFDRは選挙戦で批判した。

当時は、財政赤字が今よりも禁忌と見られていたようだ。選挙に勝ったFDRは、散々批判していたにもかかわらず、大統領になった後はより巨額の赤字を計上して公共投資を行った。いわゆるニューディール政策である。しかし、この政策でも米国の経済は上向かなかった。

1917年に成立したソ連は各国に共産主義を広め、内治の混乱を仕掛けていたため、自由主義諸国は警戒し、米国はソ連を国家として承認していなかった。

しかし、FDRは大統領になるとたちまちソビエトを承認した(1933年10月)。ソ連は米国に対して工作活動をしないと言っていたが、約束は当然守られず、米国は左傾化した。米国に続いて各国がソビエトを承認した。ルーズベルト政権には多数のソビエトのスパイが入り込んだ。国務省はソ連承認に反対するレポートをあげていたが、FDRは基本的に国務省のアドバイスを無視して政策を決めていた。

ヒトラー

第一次世界大戦で敗れ、ベルサイユ条約でむちゃくちゃな要求をされたドイツはヒトラー政権下で回復しつつあった。軍備が整ったドイツは第一次世界大戦時に奪われた領土を取り戻すために近隣諸国を併合しだした。イギリスのチェンバレン首相は、ベルサイユ条約がドイツに過酷な要求をしていたことに気づいていたので、これらのドイツの行為はしかたないものと見ていた。

ドイツは東進し、いずれスターリンのソビエトと戦争するだろうと当時の識者は予想していた。独ソが争った後に、仲介に赴くのが最も賢い選択肢だと思われていた。

ドイツはオーストリアとチェコスロバキアのズデーテンラントを併合した。次のヒトラーの狙いはポーランドだった。識者の予想を裏切って、イギリスのチェンバレン首相はポーランドの独立を保障した。この判断には複数の要因があるが、FDRがそのように決断するように英仏ポに工作をしていたことが大きな要因だった。FDRは駐仏大使を通じてアメリカの参戦を約束していた。

この独立保障を受けて、ドイツはソ連と不可侵条約を結んだ。ヒトラーはポーランドに外交的な働きかけを続けたが、ポーランドの強気な態度は変わらず、ドイツはポーランドに侵攻し、英仏はドイツに宣戦布告した。極東で日本と停戦したソビエトも、ポーランドに侵攻したが、英仏はソビエトにはなぜか宣戦布告しなかった。

この頃はホロコーストは外国にあまり知られておらず、ホロコーストを防ぐことが参戦理由にはならなかった。

FDRがポーランドの強気を後押しせず、ポーランドがおとなしくドイツに併合されていれば、英仏が参戦することはなかったと思われる。

英仏が参戦するとアメリカは英仏の武器の供給工場として好景気を迎えた。

FDR政権は世論を開戦に導くためにドイツの脅威を大げさに語るプロパガンダ工作を行った。しかしこの工作は米国民には通じなかった。FDRはアメリカを参戦させるために何か別の手段を考えなければならなかった。

イギリスの制空権を奪えなかったドイツは、独ソ不可侵条約を破ってソビエトに侵攻した。FDRは議会での検討もなしにソビエト支援を決めた。

FDRはアメリカが正当な参戦理由を得るためにドイツがアメリカを攻撃するように刺激したがうまくいかなかった。そこでターゲットは日本に移された。

フランクリン・デラノ・ルーズベルト悪人伝説(アジア編)

第一次世界大戦の戦禍が記憶に残っていたので、欧州での争いに米国民は参加したくなかった。

しかしFDRは戦争をしたくてたまらなかったようだ。1937年10月には、日独伊を世界の伝染病患者にたとえ、隔離して監視すべきだと主張した(隔離演説)。しかしこの演説の評判は散々で、FDRは戦争をしたいという意図を表向きは隠さざるをえなかった。FDRが戦争をしたかった一因には米国経済を戦争で潤したかったという動機があったものと思われる。米国は第一次世界大戦時に、英仏の軍需工場として大量の兵器等を輸出販売し好景気になった。FDRはこの隔離演説においても共産主義国は批判していない。

日本に先制攻撃をさせたかったFDR政権は、日本に対して次々に経済制裁を行った(1937年日米通商航海条約破棄、1941年日本の在米資産凍結、石油製品禁輸)。

日本の近衛政権は米国との戦争回避に向けて積極的に動いたが、FDR政権は聞く耳を持たなかった。グルー駐日大使も日米首相会談を勧めたが、FDR政権は外交交渉による解決を最初から望んでおらず、武力衝突を目指していたものと思われる。講和を望む日本の動きや大使の意見は、一般のアメリカ人には知らされることはなかった。これらは全て隠密に行われた。

1941年11月には最後通牒ハル・ノートが手交された。

真珠湾攻撃が行われた日のスチムソン陸軍長官の日記には、

日本が我が国を攻撃したとの報を受けた時、私の最初の感慨は、これでようやく我が国がどっちつかずの立場にいることから解放されたというものだった。(日本の真珠湾攻撃で)国民がようやく一致団結できる。

と書いている。日本の真珠湾攻撃は、FDR政権が長い間望んでいたものだった。

真珠湾の事件は、我が国の参戦を狙う勢力にとっては、参戦を渋る議会の束縛から解放され、戦いに消極的な国民を戦争に導くための口実となった。

真珠湾事件は、目に見える最初の日本との戦いだった。しかし(ルーズベルト)政権が仕掛けていた秘密の戦争という視点からすれば、その(日本に対する)秘密の戦争の最後の戦いであったと言える。秘密の戦争は、我が国の指導者が敵と決めた国との戦いである。どの国が敵かは、宣戦布告によって公式に敵国となるずっと前から決められていた。秘密の戦争は、敵国に仕掛けられるだけではない。プロパガンダや嘘の情報を流し、国民世論を操作しようとする。つまりアメリカ国民に対しても仕掛けられているのだ。我が国の(日本に対する経済制裁などの)外交は、実際には戦争行為と変わらないものであっても、我が国が戦争しないための方策だと言い換えられた。(ジョージ・モーゲンスターン「パール・ハーバー:秘密の戦争の内幕」)

1942年、FDR、チャーチルはカサブランカで会談をし、終了後に記者会見をした。その場でFDRは「日独伊には無条件降伏を要求することを決定した」と勝手に言いだした。この無条件降伏要求は講和を遅らせる働きをした(「無条件降伏要求は、無条件の抵抗を生む」フーバー)。

まとめ

FDRの諸政策は本来起こらずに済んだ戦争を拡大し、大量の死者を追加した。民主主義国の若者も大量に死んだが、戦後に権益を拡大したのは共産主義国だった。

これらのFDRの策謀は一般的にはよく知られていない。もっと多くの人が知って、歴史の真実の普及に努めるべきだ。