タレブの反脆弱性の第16章(無秩序の教訓)は教育について書かれている。このエッセイを読むと、私が金持ちになれたのは正道を外れたからかもしれないと思えた。
正道とは、一流の大学に行って、一流の職場に就職するような人生である。私は受験勉強はできたので、1.5流か2流くらいの職場に就職できる可能性はあった。しかし、人の言うことを聞かなかったり、反抗的だったり、精神を病んでいたり、アルコールに溺れていたせいでろくでもない職業遍歴を重ねてしまった。
タレブは次のように書いている。
世の中には、ゲームのように、規則が事前にはっきりと定められている「お遊びの世界」と、実生活のように、規則が明確ではなく、変数同士を切り離して考えられない「生きた世界」のふたつがある。私は一方の世界からもう一方の世界へとスキルを応用できないのを見て、路上のケンカや実生活ではなく、教室で身につけたスキルや人工的に学んだものすべてに疑いを持つようになった。
あまり知られていないことだが、チェスの名手がチェス以外でも高い推論能力を発揮するという証拠はない。目隠しチェスの多面打ちができる人でさえ、チェス盤を離れれば記憶力は人並みだ。私たちはゲームの領域依存性を認めている。ゲームをしても人生勉強の代わりにはならないし、ゲームのスキルを人生に置き換えるのが難しいことは認めている。でも、学校で習った専門的技術には、なかなかこの教訓を応用できない。教室で学んだことはほとんど教室でしか通用しないという重大な事実は受け入れられないのだ。
(略)
体系的な環境の中で、ほかの人よりも知能を発揮できる人たちもいる。実際のところ、学校にはそいういう環境にすばやく対応できる人を有利に扱う選択バイアスがある。その結果、競争のある環境は何でもそうだが、それ以外の環境での能力が犠牲になる。当時、私はまだジムに詳しくなかったのだが、知識についてこんな風に考えていた。現代の高価なジム・マシンを使って、身体を鍛えている人たちは、とてつもなく重いウェイトを持ち上げ、すごい数値を叩き出し、隆々とした筋肉をつけることはできても、石を持ち上げられなかったりする。路上でケンカをすれば、もっと泥臭い環境で鍛えられた人に、ボコボコにされるだろう。彼らの力は非常に狭い分野に特化していて、お遊びの(とても整然とした)環境の中だけでしか通用しない。
事実、彼らの力というのは、過剰に特化したアスリートと同じで、変形によるものでしかない。それは、好奇心を追及するのではなく、ごく狭い学問でよい成績をあげる力で生き残った人も同じなのだ。自分の専門分野からちょっとでも外れると、彼らはとたんに腐り、自信を失い、拒絶する。
(略)
1980年代のある日、私は有名な投機家と夕食をともにしていた。大成功した男だ。その彼が誇張してこんなことを言った。「ほかの人がもう知っていることの大部分は、学ぶ価値などない」。私は心を打たれた。
私は今でも、ある職業で成功するために知っておくべき極意みたいなものは、必ず教科書以外にあると思っている。それも中心からなるべく離れたところに。
もしも私がきちんとした就職をし、そこそこの年収を得て、お行儀よく目上の人の意見を聞いていたら、今頃、純資産はマイナスだっただろう(貯金から住宅ローンを引いた額がマイナスになるという意味)。
しかし、大卒後、先物取引会社に就職し、三ヶ月で辞めた後、工場の夜勤アルバイトになったせいでいろいろなことを試さなくてはならなくなった。
参考記事:先物取引会社に勤務した三ヶ月の思い出
20代中盤以降、どうすれば今から金持ちになれるか?をずっと考えながら生きてきた。
工場のアルバイトから転職して正社員に身分を変えたが、「社員」であることで金持ちになるのは難しいと気づいた。
資格の勉強をし、資格では金持ちになれないと気づいてからは、資格とは無関係の勉強をした。コーポレート・ファイナンスや韓国語(半年ぐらい勉強した)、中国語だ。
FXを始めて、貯金の大半を飛ばした後、株式投資を始めた。
タレブの言うティンカリング(つつきまわし)だ。損失が限定的な挑戦をずっとやり続けて、遂に株で成果をあげることができた。
大学卒業後、まともなところに就職した同級生たちはそれほど裕福になっていない。私もそういう「まともな」ルートを採っていたら今より貧乏になっていた気がする。
もちろんきちんとした大学を卒業して、きちんとした職に就いて、それでいて投資もうまい金持ちも存在する。ろくでもない道を歩めば金持ちになれるというわけではない。
日本でトップクラスの個人投資家のうち何人かは本業が医者だ。
しかし、日本でトップクラスの投資家の一人、五月さんはアニメの専門学校に行っていたと思うが、彼が大学の法学部なんかに行っていたら、その高い能力から弁護士になって、逆に今よりずっと貧乏になっていたのではないだろうか?(誰もが狙い、競争が行われるポジションについてもさほど金持ちにはなれないのだ。少数のスポーツ選手やアーティストを除いて・・)
子供の教育をどうすべきか
私は子供に公文式をやらせているが、子供が小学校中学年くらいになったら、逆にこれを辞めさせてもいいのではないかと思うようになった。
読書をするために必要な国語能力が鍛えられるので、初期の公文式はやらせる価値があると思うが、その後はどうなのだろうか?受験勉強のオタクのようになったとして、それなりの期待値は見込めるのだろうか?
タレブ自身は学校の勉強はほどほどにやって、後は自分の興味の向くままに読書をしてきたと書いている。
教育ママは子どもの生活から試行錯誤や反脆さを取り除き、子どもを生きた世界から遠ざけ、(自分の思い描く)現実の地図どおりに動くオタクへと変えてしまう。優等生だけどどんくさいヤツ、ひと言でいえば、動きの遅いコンピューターだ。(略)
内戦下で育った私は、体系的な学習というものを信頼していない。教室なんかに通わなくても、個人的な蔵書を持っていて、自由気ままな(ただし分別ある)遊び人として時間を過ごし、本の中でも外でもランダム性を糧にすることさえできれば、オタクにならなくても知識人になることは可能だと思っている。正しい厳格ささえ持ち合わせていれば、私たちに必要なのは、ランダム性、無秩序、冒険、不確実性、自己発見、トラウマに近い出来事だ。(略)
自由なのは独学者だけだ。それは学問にかかわることだけではない。人生を脱コモディティ化し、脱観光客化しようとする人たちはみな自由なのだ。スポーツは、6番売り場でツナ缶の隣に並べられているようなパッケージの中に、ランダム性を封じ込めようとする。一種の疎外だ。
(略)
とはいえ、私は完全な独学者ではなかった。学位を取得しているからだ。むしろ、私は試験に合格する必要最低限のことだけを学ぶ、バーベル型の独学者だった。時にはたまたまよい成績を取ることもあれば、やり損なって面倒なことになったことも何度かあった。だが、私はいわばジムのマシンを離れて、カリキュラムにない本を猛烈に読みあさった。最初は人文科学、それから数学や科学、そしていまは歴史だ。私は、自分で選んだものなら何でも深く広く読めることに気づいた。好奇心と一致するからだ。(略)ひとつの本やテーマに飽きたら、読むのをやめる代わりに、別の本やテーマに移った。
子供には、リングの上で特定のルール下でのみ勝てる人間ではなく、路上の咄嗟のケンカにも勝てるような知識を身に着けてもらいたい。
シムズの本も似たようなテーマだったと思う。ずっと前に読んだのでうろ覚えだ。
コメント
nextir35さま
おはようございます。
はじめまして。
いつも記事を読ませていただいて、勉強させていただいております。
お若いのに人生経験の豊富さに感心しています。
私なんぞ、レールに敷かれた人生でここまで(アラウンド55)
やってきました。自身で人生を切り開いてきたという実感は全くありません。
ただ何となくその時その場の人生を過ごしてきました。少し薄い人生のような気がします。そのことを自信をもっておればそれはそれでよいのだと思いますが、
そんなふうでもありません。
子供に親父はかっこいいと思われるようにしたいのですが、それもできなかったようです。
すみません、ここは悩み事相談室ではないですよね。
さて、本題に入ります。貴殿の記事を拝見していますと四季報はほとんど読まないとありますが、いったいどのようにして購入銘柄をみつけておられるのでしょう?ほぼ開示情報をもとに候補をピックアップしておられるのですか?
もしよろしければ候補選別ポイントなどを教えていただけましたら幸いです。
子供の教育は難しいですね。人生に正解がないことを教えるのはなかなか大変です。今の学校教育(昔とあまり変わっていない)を100%否定はしませんが、昔より非力になっていることは間違いないですね。でも学力も大事なのかもしれません。私のようにどこがで誰かと一緒に何かをやらないと何もしないような人間には学校はコミュニティとしての機能は優れていると思います。
とりとめもないことを書きましたが、今後も記事を楽しみにしております。
今後も長くブログを継続されることを願っています。
>atok440さま
コメントありがとうございます。銘柄はほぼ開示情報をもとに見つけています。
業績や成長性の割にPERが低かったり、配当利回りが高い銘柄を購入しています。