五-2.パレスティナユダヤ人口

ユダヤ民族の世界分布の状態は、大体前述の通りであるが、数年前のパレスティナの全人口は、回教徒たるアラビヤ人が63万2千、キリスト教徒が8万2千、その他の遊牧民が1万2千で、ユダヤ人は15万8千である。往古におけるユダヤ人は、もとより明確な記録がないから明らかでないが、西暦紀元前1920年、モーゼがエジプトを脱する時には、約60万のユダヤ民族を率いたと、伝えられている。したがってこの時代既に、相当の人口を有しておったものと思われる。

その後ユダヤ国が滅亡する頃は、5、6百万の人口であったように記されている。しかしその国の滅亡と共に、ユダヤ人は諸国を流散し、ことに附近のエジプト、ペルシャおよびバビロニヤ等にはどしどしユダヤ部落が出現すると共に、反面本国の人口はにわかに減少し、1170年頃の記録によれば、総計僅かに1,053名に過ぎなかったという。降って1845年シュワルツという人は、ユダヤ人口1万1千と記し、また1855年フランゲルは1万114名と数えている。

しかるに1860年全世界イスラエル同盟創立の年以後、モロッコ、コーカサス、アラビヤ及び東欧にあるユダヤ人の帰国するもの逐年増加し、1880年には総人口二万となり、更に15年後の1895年には5万に激増した。これは1860年全世界イスラエル同盟の創立が、直接間接にこれらのユダヤ人に、大なる衝動を与えたによるものである。

すなわち該同盟の首領の一人たるモーゼス・モンテフィオレ等は、1856年にヤツファの港附近に、柑橘類等の栽培事業を始め、1869年には該同盟がエルサレム西方ミクヴェーイ・イスラエルという所に、英仏両国の賛助を得て、ユダヤ農学校を建設した、これらは、パレスティナのユダヤ人口の増加の大なる原因をなしている。

私もパレスティナ滞在中この農学校を参観したが、その歴史の古いだけに設備万端行き届いて、若きユダヤの子弟等は、愉快気にたくましき牛馬を扱い、また美しき菜園に余念なく働いておった。

1896年シオン会議の開催と共に、シオニズムはいよいよ具体化され、世界大戦の直前には、ユダヤ人口約9万に増加した。しかるにいよいよ大戦となるや、当時パレスティナにおったユダヤ人の大部は、露国系であった関係上、パレスティナを統治しておったトルコは、これに対して大いに圧迫を加え、ためにユダヤ人等は退去を余儀なくせられた。ここにおいてパレスティナのユダヤ人口は再び6万に減少し、首府エルサレムには僅か5千のユダヤ人が、踏み止まったに過ぎなかった。

しかるに1918年バルフォアの宣言があり、続いて英国のアレンビー将軍の率いるエジプト遠征軍が、トルコ軍を北方に撃退してパレスティナを占領すると共に、ユダヤ人は逐次に復帰し、ことに大戦後、英国の委任統治下にシオン運動が世界の公認となり、シオン団の移民事業開始せらるるや、逐年ユダヤ人口は増加し、1926年9月の調査に依れば、パレスティナのユダヤ総人口15万8千に上り、エルサレム市だけでユダヤ人口約5万を数え、その後引き続き増加して現在の39万5千、すなわち約40万の人口を有するに至った。

なおパレスティナにおけるユダヤ人の増殖率は、その人口に対し1割7分以上の比率に達し、実に世界最高の増殖率を示している。元来「産めよ而して栄えよ」とはユダヤ教の教うるところで、ユダヤ聖書タルムード抜粋シルハンアルフユダヤ処世訓第百則に、

「各々のユダヤ人は人類繁殖のため娶らざるべからず、ゆえに金のため彼女を娶る場合のほか、子を産む余裕ある女を娶るべく、老女および概して望みなき女を娶るべからず。ユダヤ人はたとえ私生児あるいは低能児たりとも、子女を有せば人類繁栄の義務を果たせり」

と教えている。男子が割礼を施しているのも、ユダヤ民族繁栄のためにほかならないのである。しかしフランス等の文明諸国に、ハイカラ生活するユダヤ人は、その環境の関係から、増殖率は大いに減退しつつあるということであるが、パレスティナのユダヤ人は、ユダヤ教の教えに背かず、ますます増え栄えつつあるのである。

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