シオンの議定書の来歴

※シオンの議定書(国際政経学会調査部)昭和18年刊の前書きの転載である。

解説

(一)プロトコールの沿革

革命はユダヤ人の本性である。革命とはユダヤ民族自らの革命でない。ユダヤ人の多数または若干が居住する国における革命である。すなわち世界革命のことである。更に、世界制覇が彼らの目的である。ユダヤ人の革命的本性に関しては、ユダヤ人側に多数の文献がある。卑近な例でもベルナル・ラザール、エリ・エベルラン等のものがあるが、ユダヤ人の世界革命の野望を最も深刻に現したのは、

「シオン聖賢のプロトコール」である。

「シオン聖賢のプロトコール」という書物が一度出版されると、それは各国に流布された。

1919年の終わりに英京ロンドンで「ユダヤ禍」という小冊子が出版された。これは今世紀の初めにロシア人セルゲ・ニルスによって露訳されたプロトコールの断片の英訳である。

この英訳80頁ばかりの小冊子がいかに当時の英国を震撼したかは、軽々しく物を書かないはずのロンドンタイムでさえ二段抜きの長評論を掲載したことでも判る。タイムスはプロトコールを分析してその内容を吟味した。同時にプロトコールに対するユダヤ人側の異議と弁解とを商量した。

タイムス曰く

「この小冊子は公平に仔細に批判を要するにかかわらず、今日までほとんど不問の儘に通っている。ユダヤ派の機関紙はこの小冊子の本性を暴露するというて、その実際に発表したものはこの小冊子の著者が無名だという如き、些末な点に縋んだだけのものである。何人をも満足させる徹底的のものは一も出ないばかりでなく、彼らは全くこのプロトコールの内容に触れていない。」(若宮氏著「ユダヤ人問題」76頁参照)

この英訳本がエア・アンド・スポテスウッドから出版されると、ほとんど時を同じくしてドイツではゴットフリート・ツル・ベークに依って独訳され、「シオン聖賢の秘訣」という題で出版された。当時のドイツの外相ユダヤ人ラテナウが殺されたのは、この独訳のプロトコールが与って力あったという。この理由でその出版者は時の社会党政府から500マルクの罰金を課せられた。

この独訳本の序言にはセルゲ・ニルスとその露訳に関する説明があった。その大略は次の通りだ。

「セルゲ・ニルスは非常に学究的で博学であった。彼は当時ウクライナに定住していたが、彼のフランス文で書かれたプロトコールの断片を手に入れ、それを露訳したのは1901年のことである。

シオン聖賢のプロトコールの第一版は1905年にペトロスブルグでエルスの著書「小事中の大事 焦眉の政治問題としての反キリスト教」の付録として出版された。この本はその後「我等の災厄の書」という題で再刊され、著者の名もなしに現れた。1907年には露作家ブートミが「人類の敵」という題名で、プロトコールの新訳を作り、ペトロスブルグの聾唖協会の印刷所で印刷さした。また別版が1911年セント・セルゲ朝時代にエルスの援助をもって出版された。その第二版は1912年に、第三版は1917年に出版されている。

ルオーブ公内閣の時と、ケレンスキーの天下の時に露国の警察は書店に発見さるプロトコールの残部を残らず押収焼却し、プロトコールの保持者をも厳罰に処した。」

英国博物館に所蔵するものは1905年ツァルコイ・スロで印刷されたものである。

1917年米国ボストンで英訳されたものにはセルゲ・ニルスのプロトコールの起源に関する説明がある。

「バーゼルで開催されたユダヤシオニストの第一回の会議の議事録は1901年にロシアの中部シエルンの貴族アレキス・ニコラエヴィッチ・スホーティンが秘密に写しニルスに渡したものである。スホーティンはニルスにプロトコールの中よりキリスト教を守るに必要な部分のみを抜粋し、政治問題をも無視するよう要求した。

セルゲ・アレキサントロヴィッチ大公はエルスの文書の送付を受けたが、「時既に遅し」という簡単なる言葉を添えて返送した。」

プロトコールの断片がいかにしてスホーティンの手に入ったか、これには猟奇的挿話があるが、説者によって順序が多少相違するの余りに信を置くことができない。

信ずべきことは、1897年バーゼルにおいて開催されたシオニスト会議の議事録が書類入れ金庫から盗まれたことである。1901年のユダヤシオニストの回章は、ヘルツル博士が会議の秘密があまり信頼出来ない人物に洩れたことを痛くこぼしていると報じた。

プロトコールは一度英国で翻訳され問題になると、フランスに移り、ハンガリーに移り、ポーランドに移り、オーストリア、イタリー、ドイツに移り、騒ぎを大きくした。米国でもブトナム商社とルイス・マーシャルとの有名な事件が起こった。日本でもそれより4,5年後に完訳が出版された。

(二)プロトコールの真銘

プロトコールがユダヤ人の筆になったという主張に対して、ユダヤ人は熱心に異説を唱えた。これに関してモスクワのユダヤ死刑執行人の手より奇跡的に逃れた一露人は「ラ・ヴィェュ・フランス」195号に次の記事を書いた。

「ユダヤ禍とは、長い間の研究と準備から成り立ったプランによってユダヤ人が世界征服をすることである。プロトコールの真偽に対して批判をすることは、単なる気晴らしにすぎない。最も重大なことは、プロトコールその物の真偽ではなく、プロトコールの預言がいかに正確に我等の目の前に実現せらるるかということである。

1869年プラーグユダヤ人墓地にあるユダヤ教会長シメオン・ベン・イホダの墓前でライヒホルン法師が声明した言葉とプロトコールの相似性は不思議である。この演説はリードクリフによって出版された。彼はその一生をこの出版事業に打ち込んだ。決闘で倒れたラッサールはリードクリフをライヒホルン法師に引き合わしたのである。ライヒホルンの言葉はプロトコールの中にもっと詳しく述べられている。

ユダヤ人レイナック、リュシァン・ウォルフなどがいかに筆を振るっても1905年に印刷されたプロトコールの内容と1914年以後各国に起こった事実との間に一脈の共通点が見出されるといふ印象を弱めることは不可能である。」

プロトコールが真にユダヤ人の筆になったものであるか、あるいは為にせんとする者の偽作であるか、そのいずれにもかかわらず、プロトコールがユダヤ人の世界革命のプログラムを代表するものであることに異論はない。その予言的性質と過去におけるある種の秘密結社の取り決めに恐ろしい程似通っている点とで、プロトコールは秘密結社の内部事情に精通し、その理想を結社特有の言葉で発表しうる者の筆になったことは明らかである。

1864年に「マキャヴェルとモンテスキューの間の地獄の対談」と題する書物が、モリス・ジョリによって出版されたが、この書とプロトコールとの類似は偶然とはいわれない程である。ロンドンタイムスも1922年8月にはプロトコールに関する記事において、ニルスはモリス・ジョリの著書の大部分を写しとったものでさえあると言ったこともある。

最近になって、ドイツのフライシャウアー大佐とユダヤ人との間に、プロトコールの真偽に対する裁判が提起され、数年にわたってスイスベルンで争われた。この時までは、事実をもってプロトコールの真銘を証する以外には、その真銘を証する方法がなかった。すなわち政治上の各種の事件、特に最近数十年間における事件が、ユダヤ人とフラン・マッソヌリーに影響されていること、これらの事件がプロトコールの支持する通りに展開されていること、また超国家的秘密力の活動が、プロトコールの発表する精神と目的とに全く一致していることが、容易に判断されたのである。

しかしながら、プロトコールがユダヤ人に編まれ、ユダヤ人の改革案として認められていたことを直接に証明する方法は、ベルンにおける裁判の間に可能となった。フライシャウアー大佐に同情を有する者が、大佐に送った資料によってそれが可能となったのである。

プロトコールがユダヤ人の作品であることは、三人のユダヤ人-二人のユダヤ教法師と一人の改宗ユダヤ人-によって承認された。

1901年、ポーランドの小都市ショッケン(現在のスコケ)にユダヤ教の助教師ルドルフ・フライヒマンが住んでいた。フライヒマンの上にはヴァイルシュエンフェルト大法師がいたが、ある時フライヒマンは大法師に非常な侮辱を受け、なおその許嫁を手込めにされた。フライヒマンは激昂のあまり、親友の非ユダヤ人ノスコヴィッツのもとに走った。彼は親友の前で彼の悲痛を訴え、ユダヤ人の陰謀を罵倒し、プロトコールについても暴露した。

ノスコヴィッツは、その後1906年に、彼の親密なユダヤ教法師グルンフェルトにプロトコールの真偽について訊ねた。グルンフェルト師の回答は全く意味深いものであった。彼曰く「ノスコヴィッツ君!君は物好き過ぎて、知るべからずことを知ろうとしている。これについて語る権利は私にはない。また君もこれについて知る権利がない。どうか気をつけてくれ、君が生命の危険に陥るようなことがあるといけないから。」最後の証人はユダヤ系亡命露人のサウエリ・コンスタンチノヴィチ・エフロンである。エフロンは早くからオルトドックス派のキリスト教に改宗していたが、ユダヤ人の秘密はかなり詳細に知り、小説に、戯曲に、ユダヤ人を攻撃した。ユダヤ人は彼に復讐するの機会を狙っていた。その時にロシア革命が起こり、彼はセルビアのサバッツ地方に逃れた。彼のプロトコールの真銘についての暴露は、パリ白系露人機関紙「共同の目的」に宛てたもので、同紙はその掲載を見合わしていたが、ベルンにおける裁判が開始されると、ワシリ・エスの好意によって、その原稿が関係者に送られたのである。

フライヒマン、グルンフェルト、エフロンの三人のユダヤ人の言葉はプロトコールの真銘を証するに十分である。ベルンにおける裁判についてはここに詳細を述べない。

(三)プロトコールの執筆者

プロトコールが流布すると同時にこの予定書の作者がシオニスト団の自称創始者テオドル・ヘルツルであるという説が立った。

プロトコールの流布と同時にプロトコールの偽作であるという声が、ユダヤ人側から叫ばれたが、テオドル・ヘルツルを弁護する者は一人もいなかった。プロトコール弁護の戦士の大立者はルシアン・ウォルフ、ジョゼフ・レイナック、ユダヤ法師ステファン・ワイズなどであるが、彼らは一人としてヘルツルを弁護しなかった。マックス・ノルドーやリシャール・ゴッタイル教授などはヘルツルの最も親しき友人であったが、一言の弁解の筆もとらなかった。

欧米の読書界でもこれのためにヘルツルが真の作家であるということを疑いだした。

綿密に調べてみると、プロトコールの真の作者はヘルツルではない。これは左の理由で証明される。

一、プロトコールは最初ヘブライ語で書かれたのである。これは専門家調査のみでなく、1890年頃オデッサに住んだ人で当時同市のユダヤ人の間にヘブライ語のプロトコールが流布されていたのを見たものがあり、後までそれを所持していたものもある。しかしテオドル・ヘルツルはヘブライ語に通じていなかった。

二、プロトコールはユダヤ精神の旺盛な者の筆になったものであるが、ヘルツルはユダヤ的教育を受けたことはなく、またその精神に民族意識を欠いていた。

三、プロトコールは天才の筆になるものであるが、ヘルツルには才気の縦横はあっても天才の閃きがなかった。

四、プロトコールには、非ユダヤ人に対する極度の憎悪を表現しているが、ヘルツルは西洋社会に同化したユダヤ人としてこれほどの憎悪を非ユダヤ人に対して抱いていなかった。

五、プロトコールの筆者は思想家であり、ユダヤ民族の指導者である。ヘルツルはしかしユダヤ民族の指導者ではなかった。彼がシオニストの指導者と叫ばれるようになったのも1897年のバーゼル会議以後においてである。

以上の理由で、プロトコールの筆者はほかにあるという説は、多くの考察家によって唱えられた。プロトコールの筆者として最も有力な嫌疑者は、私的生活においてはアッシャー・ギンツベルグと呼ばれ、同族の間においてアハド・ハーム(民族の一人者)の敬語で呼ばれている男である。しかし「ユダヤ聖賢のプロトコール」に発表されている思想の創作者をアッシャー・ギンツベルグであると断ずるのは大きな誤りである。アッシャー・ギンツベルグは、彼に先立つ全ての時代、全ての世紀の相続者である。彼は熱心にユダヤ哲学の鎖を手繰り寄せたに過ぎない。彼はユダヤ教の上に築かれた各思想を吸収したに過ぎない。彼は各種の思想を汲んで、その綜合を作り、プロトコールの中にそれを表現したのみである。

聖賢(Sage)という言葉はユダヤ教法師、預言者、思想家等にその死後に与えられる敬語である。

その意味から言っても、ギンツベルグは、「ユダヤ聖賢のプロトコール」の真の筆者でない。プロトコールは一ユダヤ人の著作でなく、民族の精神の発露である。

最後に学会は、本プロトコール全文を翻訳するに当たり、主としてロージェ・ランブラン監修の仏訳により、左の諸書を参考としたものであることを付言したい。

(略)

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