保守は隆盛になったが渡部昇一のハイエク好きは承継されなかった

戦後の左傾した論壇で、一人、気を吐いて左派と戦ってきた言論人・渡部昇一(1930-2017)。彼を敬愛する保守派の人物は多いだろう(渡部氏がなくなった時、当時首相だった安倍晋三氏は自宅に弔問に訪れた)。

渡部氏が土台を築いた戦後の保守思潮だが、渡部氏が敬愛したハイエク的な価値観はなぜか継承されなかった。

渡部昇一氏の真に偉大なところは、勤勉で勇敢な保守系知識人であるだけでなく、ハイエクの良さが分かっていらしたところだ。

それなのに今では保守系の政治家・論壇人までもが、大きな政府志向で、国家が国民の生活の隅々にまで干渉する趨勢を良しとしている。

何か問題が起きれば、政府が干渉して解決しようとする。また、国民もそれを期待する。機会の平等だけでなく、結果の平等を実現しようとする。自助の精神と個人の自由を犠牲にして、幸福を増大させるのかどうかわからない結果の平等が目指される(例えば「ゼロコロナ」「一億総活躍社会」「全世代型社会保障」)。

疫病が流行れば、超高齢者までも保護しようとし、全体が不幸を甘受するように示唆される。それによって不利益を被る商売人が出れば、お金をばらまいてそれも保護しようとする。

財務省がバラマキをしぶれば、財務省の陰謀だと謎の非難がなされる。しかし財務省が健全財政を目指すことのどこが悪いのだろうか?(時折、日本政府はいくら国債を発行しても大丈夫だと主張する人がいるが、そういう人たちはなぜすべての税金をゼロにしろとは言わないのだろう?国債をいくら発行しても問題ないのなら、国家予算を全て国債発行でまかなえるはずである。それなのにそういう人たちは「消費税減税しろ」などと小さな話ばかりする)。

善意によって「誰も不幸ではない社会」を作ろうという試みが、全員が平等に不幸な社会を作り出す。

今の日本に必要なのは、圧倒的にハイエクだろう。自由を尊敬する精神、自助を大切にする精神、小さな政府。

そうでないと日本社会は、お上頼りで、活気がない、硬直した社会になってしまう。個人の自由よりも、全体の幸福が大切であると洗脳された結果が、鼻までマスクで覆い隠した人々の群だ。

ネトウヨと呼ばれるような愛国心あふれる人たちも、善意の全体主義に洗脳されている。政府が関与して、「結果の平等」を実現し不幸な人々を減らすことは正しいことだと安易に信じている。

保守系の言論人で、ハイエク的な事を言う人はいない。自助が大切だという人はいない。貧乏人や高齢者からの批判を恐れてか、政府が父親のように日本国民を保護するような社会を理想にしている。

67歳の池田信夫氏(ハイエクの解説本を書いている)が亡くなったら、日本から、小さな政府を推す論者は消えてしまうのではないだろうか?

小さな政府主義は、貧乏人の人権を侵害するものであるかのように冷たい目で見られている。しかし長い目で見れば、大きな政府は国民全体を不幸にすることを歴史が教えている。

ハイエクがもっと読まれてほしい。彼の主張が広まって欲しい。ハイエクの思想のエッセンスを紹介するマンガ本が出版されてほしい。