歴史の授業にもその名前が出てくるマルチン・ルターはユダヤ人についての書籍を残している。書籍の英題は「The Jews And Their Lies」で、1543年に書かれたようだ。
「ユダヤ人と彼らの嘘」というタイトルで邦訳も出ているが、すでに絶版でプレミアがついている。
図書館で借りることができたので、どんなことが書いてあるか抜粋して紹介したい。
ルターの主張は、根拠の無い偏見なのだろうか?ルターはユダヤ人に対して故のない被害妄想を抱いてたのだろうか?それとも彼の主張こそが妥当で現代のユダヤ人観の方が長い歴史の中でイレギュラーなのだろうか?考えてみてほしい。
私の目的とするところは、ユダヤ人達と論争したり、彼らが聖書をどのように解釈したり理解したりするかを彼らから学ぶ事にあるわけではない。私は、既にそれらの事をすべて知っているからである。ましてや私がユダヤ人を改宗させようなどと考える事はない。そんなことは不可能なのだ。
(略)
我が親愛なるキリスト教徒よ。それ故、心よりユダヤ人たらんとしているユダヤ人ほどに敵意を持ち、有害で強力な敵は、悪魔以外には誰もいないという事を知らなければならない。
彼らの内には、牛やアヒルが信じる事を信じる者がいるかもしれない。しかし、彼ら全員が、彼らの血と割礼の信仰の中に包まれているのだ。それ故、歴史上、彼らはトレントやワイゼンシー等におけるが如く、しばしば井戸に毒を投げ込み、子供たちを誘拐、殺害したとして有罪を宣告されているのである。
もちろん彼らはこれを否定する。しかしながらそれが事実であるにせよ無いにせよ、もし彼らが、秘密であるにせよそうでないにせよ、そうした事を行動に移す事が可能な場合には、彼らには、それらの事を為すのに十分、かつ準備のできた意志が欠けているわけではないという事を私はよく承知しているのである。
こうした事をしっかりと知って欲しい。そして、それに従って行動して欲しいのだ!
(略)
そして顕著な特徴として、彼らは自分たちの間で次のように言い合う事で彼らの信仰と我々への激しい憎悪を強めているのである。
「いかに神が我等と共にあるか、そして流浪の身である我々を見捨てていないかを見守り続けよ。我々は働かず、よき怠惰な日々を満喫している。そして、呪われたゴイム(非ユダヤ教徒のこと)は我等の為に働き続けねばならない。我々は彼等の金銭を手に入れる。それ故、我等は彼等の主人であり、彼等は我々の召使である」
(略)
ユダヤ人達のタルムードやラビ達は次のように著述しなかっただろうか。もしユダヤ人が異教徒を殺害したとしても、殺す事は罪ではない。しかし彼がイスラエルの兄弟を殺すならそれは罪である。もし彼が異教徒に対して彼の誓約を守り続けなかったとしても罪ではない。
それ故異教徒から盗んだり、略奪したりする事は神聖なる仕事なのである。というのは、彼等は自分達が高貴な血筋であり、割礼を受けた神聖なる人間であり、一方我々は呪われたゴイムであるが故に、我々キリスト教徒に対し罪深くあり過ぎるという事は決してあり得ないという風に考えているのである。
そして彼等は世界の主人であり、我々は彼等の召使、そう、彼等の家畜なのである。
(略)
私は三つのイソップ物語の中にはタルムード主義者やラビ達のすべての著者の中によりも、そしてユダヤ人達の心の中にこれまでに育まれた事ができたすべての物よりも、さらに多くの知恵が存在している事を主張したいと思う。
人は私が少し言い過ぎていると思うかもしれない。しかし、私は言い過ぎどころか、あまりにも少ししか言っていないのだ!
(略)
我々は彼等がイエスの母、マリアをそう呼ぶように自分達の妻を売春婦とは呼ばないし、また我々は彼等が我等の主を呼ぶように彼等の事を私生児などとは呼ばないのである。我々は彼等を呪わず、あらゆる種類の肉体的、精神的な幸せが彼等の上にあるよう祈り、我々と一緒に暮らすことを許している。我らは彼等の子供を誘拐せず、切り刻む事をしない。彼等の水に毒を入れる事をしない。彼等の血を渇望する事もない。
(略)
神が正気とはおもえぬ無分別と荒れ狂う心を持って彼等を処罰したという事は我々がモーゼから引用したとおりである。かくしてユダヤ人達がエルサレム崩壊後の300年間にわが主やキリスト教徒、そして子供達に対して流させた穢れのない血に仕返しをしなかったという事は我々の失敗であった。我々が彼等を殺害せず彼等のすべての殺人、呪い、冒涜と恥辱に対してとがめもせずに我らの間に住まう事を許し、彼等の学校、家、身体、財産を守り、それによって彼等を怠惰にし、彼等が我々から金銭や財産を絞りとるのを信頼して保証し、手助けした。それに加えて我々をあざけり、つばを吐きかけ、最終的には彼等が我々に勝利し、その様な大きな罪によって我々全員を殺害し、我々の財産のすべてを持ち去る事を望み、日々祈っているのである。こうしたすべての事は我々の失敗である。
ルターは続けて、6つの提案をしている。
- 第一に、我々は彼等の会堂と学校を避け、また人々にそれらに対して反対するように警告する。
- 第二にあなた達は彼等が自分の家を我々の中に建てるのを拒否せねばならない。
- 第三に嘘と呪いそして冒涜が教えられる彼等の祈祷書およびタルムードの全著作を彼等から没収すべきである。
- 第四に彼等のラビが説教をする事を禁止せよ。
- 第五に街道でのユダヤ人の保護は廃止さるべきである。
- 第六にユダヤ人達にとって異国の土地において、自分の国の中の主人公でもない場所においては彼等の高利貸しは禁止されるべきである。
現代の読者はルターの激越な怒りを目のあたりにしてとまどうかもしれないが、第二次世界大戦前までは、ユダヤ人に対して警戒を呼びかける文章はドイツに限らず無数にあった。しかし第二次大戦後、それらの蓄積は急に途絶えてしまった。この急激な忘却はどのような作用によって為されたのだろうか?
私がこの様な記事を書くのは、憎しみを喚起したいからではなく、適切な警戒心を喚起したいからである。先人が抱いていた警戒心は消えてしまったが、それが果たして合理的なのだろうか?ユダヤ人にまつわる言論は変わってしまったが、果たしてユダヤ人は変わったのだろうか?私はユダヤ民族の転向宣言を見つけられずにいる。