人類の持続可能性を最も延ばすのは寛容な宗教性

人類はいつまで存続できるのか?

毎年のように人口を増加させ、大量生産大量消費をし、自然環境を損ないつつ存続していけるのか?

どこかで行き詰まりが来るだろう。その場合に考えられる大災厄としては次の2つが考えられる。

  • 戦争
  • 自然からのしっぺ返し

その他にも災厄をもたらすものはあるだろうが(隕石の落下など)、この2つを避けて、人類が持続していくには、「寛容な宗教性」が大切だと思う。寛容な宗教性とは、

  • 他の宗教を排しない、
  • 霊的な向上を人生の第一目標にする、
  • 輪廻転生を信じる、

ような宗教性である。

不寛容な宗教性は、かつて有ったように争いをもたらす。キリスト教対イスラム教のような争いである。

無神論はどうか?無神論は人生の目的を決定しないから、どうしても無神論者は

  • 快適、快楽
  • 長寿、健康

を追求することになる。富を追求すると、大量生産・大量消費をやめることはできない。売上が下がり、仕事が減り、収入が減り、株価が下がるからである。さらに保有することが収入につながらない自然環境の破壊が進む。

人口の増大は、売上の増加と株価の上昇をもたらすので、富の追求は人口の増加を歓迎する。人口の増加は、さらに自然環境の現象を招く。

また、無神論者にとって、道徳や善悪は相対的なものなので、無神論者の中からは、中国のように覇権を目指す人たちが出てきてしまう。というか、無神論者の世界では、自分がいいと思えば、どのような行為も結局はアリになってしまう。

結果として、自然環境をどんどん追い込むことになり、いつか行き詰まることになる。あるいは対立が激化し戦争になる。

では、最も人類に調和をもたらし、持続可能性を向上させる信念は何かというと、さきほど挙げた寛容な宗教性という事になる。

他を排さず、人生の目的を霊性の向上にし、輪廻転生を受けれ入れている宗教性に最も適合しているのは、インド発祥の諸宗教である(キリストは輪廻転生を否定していなかったが、後のキリスト教組織は輪廻転生を否定してしまった)。

ヒンドゥー教(もちろんカースト制は不要である)、仏教、サイババの教えなどである。

一つの神がいるだけです。神は遍在です。一つの宗教があるだけです。それは愛という宗教です。一つのカーストがあるだけです。それは人類というカーストです。一つの言語があるだけです。それはハートという言語です。(サイババ)

人生の目的が「霊性の向上」になれば、必然的に道徳性が増し、調和的になる。富や快適さを追求することは魅力的な目標ではなくなるので、自然環境とも折り合いをつけやすくなる。

輪廻転生が自明のものになれば、異教徒、外国人、異性に対して寛容になるだろう。来世で異教徒や異国人や異性に生まれ変わるかもしれないし、肉体は仮の姿でしかないからである。

また死が人生の終わりではなくなるので、不自然なほどの延命や、健康の追求もやめることができる。社会保障に対する過度の要求はなくなり、国家予算を圧迫しない事になる。自分の家系の繁栄、自国の繁栄という考えにもこだわらなくなるので、人口増を止めやすくなる。

そういうわけで、人類の持続可能性の観点からすると、インド発祥の寛容な宗教性は、人類にとって最適である(もちろん既存の宗教を廃する必要はない。しかしユダヤ教やイスラム教は異教徒に対してもっと寛容的であった方がいいし、キリスト教はヨハネの黙示録のような恐怖を喚起するテキストを忘れた方がいいと思う)。