霊的に最もご利益のある場所は、霊性の高い人の近く

ある種の縁起をかつぐ人は、さまざまなご利益を求めて寺社仏閣を訪れる。あるいはパワースポットとされる場所を訪れる。

こうして体を物理的に移動させて、どこかに行くことで最もご利益があるのはどこか?というと、それはおそらく特定の場所ではなく、霊的に高い状態にあるとされる人物の近くに行くことだと思われる。

というのも、霊的な向上の方法を説く教えの多くは、グル(霊性に関する師匠?)との交わりを推奨している。霊的に高い人物と交際することは、霊性の向上を導くとされているのだ。

それは、本をただ読むよりも、実際に偉い人から話を聞いた方が腑に落ちるとか、説得力が感じられるとかそういう理由で推奨されているのではない。

様々な言い方があるけれども、それはオーラ、普段は自覚されない真我、アトラクターフィールド、そういった目に見えないもの同士が影響を与えて、高い霊性の持ち主が、低い霊性の持ち主の霊性を引き上げるからだ。

漫画「ジョジョの奇妙な冒険」は、スタンドという霊的な存在を登場人物が持っていて、スタンド同士が戦うという設定だったが、私が言いたいのは、我々は自覚していないけれども、スダンドのようなものを持っていて、霊的に高い人物のそばに行くと、スタンドとスタンドの間で交流がなされて、霊性向上が図られるという事だ。

ほんまかいな?と思われるだろうが、書籍からそれっぽい例を紹介する。

ポール・ブラントン著「秘められたインド」から。ブラントン氏はイギリス人で、1934年にインドの霊性に関する側面をレポートした「秘められたインド」を刊行した。

ブラントン氏は、ブラマーというヨガ行者と親密になる。ブラマー氏はブラントンにこのように言う。

「師なしには、あなたの書物は単なる紙切れにすぎません。われわれが彼を呼ぶ言葉、グル、は『闇を追い払う人』という意味です。自分の努力と運命とによって幸いにも真の師を見出した人は、速やかに光の状態の中に歩み入ります。師が、弟子を向上させるために自分が持っているもっと高い能力を用いるからです」

その後、ブラントン氏は、マドラスで「もの言わぬ賢者」と呼ばれている修行者と出会う。ブラントン氏は「もの言わぬ賢者」との会見に成功する。ブラントン氏は、「もの言わぬ賢者」の発言を完全には理解出来ないが、下記のような感覚を覚える。

彼の答えの意味を理解するかしないうちに、私は突然不思議な力が自分の肉体に入るのを感じる。それは脊柱を通って流れ、頚すじを硬直させて頭部に達する。意志の力が最高度に強くなったように思われる。人の最も深い理想を自覚するためには自分を克服し、肉体を意志に服従させよう、という強い衝動を意識しはじめる。私は直観的に、それらの理想は自分の最善の自己の声に他ならない、そしてその自己のみが、自分に永続する幸福を約束することができるのだ、ということを感じる。何かの流れが、ある眼に見えないテレパシー的な流れが、賢者から自分に向かって放射されつつある、という奇妙な思いが私の心に浮かぶ。

その後、ブラントン氏は、アルナーチャラにラマナ・マハリシに会いに行く。マハリシは、瞑想をしていて、ブラントン氏はマハリシの瞑想が終わるのを待つ。待機が二時間を過ぎた頃、ブラントン氏の心中はこのように変化する。

しかし、私が自分の心中に起こりつつある無言の、抵抗し難い変化に気づくのは、この普通でない場面の二時間目に入ってからである。一つ、また一つと、汽車の中であんなにこせこせした精密さをもって用意した質問は姿を消していく。なぜなら、今はそれらを尋ねようと尋ねまいと問題ではないように思われるのだ。今まで私を悩ませていた問題を解決しようとすまいと、問題ではない、と思われるのだ。私はただ、静寂という堅固な河が自分のそばを流れているように思われることを、偉大な平安が自分の存在の内部に浸透しつつあることを、そして自分の思考にさいなまれた頭脳がある休息に到達し始めていることを知るのである。

私があんなにしばしば自分に問うてきた質問の、何と小さく見えること!失われた年月のパノラマの、何とちっぽけになって行くこと!私は突然、知性はそれ自身の難問を創り出してはそれらを解決しようと努めて自分をみじめにするものである、ということをはっきりと認識する。(略)

私は二時間がすぎるまで、この確実に深まっていく静けさの感覚に自分を委ねる。時がすぎることは、もはや私をいら立たせない。心の創った難問という鎖が断ち切られて投げすてられるのを感じるのだから。そして次に少しずつ、新しい疑問が意識の分野に場所を占める。「この人、マハーリシーは、花がその花びらから芳香を放つように霊的平安の香りを放射しているのだろうか」。

マハリシとの問答を終えた後日、ブランドン氏はマハリシの側に座っていると、眠ってしまい夢を見る。

夢にはマハリシが出てきて、ブランドン氏は夢の中で言いようのない平穏を感じる。

(略)私は、自分の頭脳とハートの内部に急速に起こりつつある不思議な変化に気がつく。私を誘惑しつづけてきた古い動機は私を見すてて行き始める。私を彼方此方に動かしてきたおさえがたい願望は、信じられない速やかさで消えていく。自分の仲間の多くの者たちに対する私の態度の底にあった嫌悪、誤解、冷淡およびわがままは、無の深淵に崩れ落ちてゆく。私は言いようのない平安に包まれ、今は、これ以上人生に対して求めるものはないと知る。

ブランドン氏は、さまざまなインドの修行者と会話をするが、会話の内容には納得しかねたりしている。しかし、精神的には、会話を超えた働きかけを受けて、変化を体験している。

次は、日本人の例。穂積由利子の「サイババの贈りもの」という本から。

カナダに住んでいた穂積氏は、サイババの信者になり、サイババに会いに行く。穂積氏がサイババを実際に見ると、頭上に光の輪が見える。

それだけでも驚きだが、もっと驚くような体験を穂積氏はしている。サイババが面接を終えて、部屋から出てくるのを待っている時のことだ。

と、前方壇上を見ていた視界が突然拡大して、神殿全体を感じるような感覚を覚え始めた。まるで鳥になって天井にいるかのように、集まっている人たちを全員ひとりひとり見ているような感覚。なにがなんだか分からずに半信半疑でいると、一瞬神殿全体の空気が張り詰めた。

それからマンディールが建っている遠い正面壇上にぽっかり空気の穴が開いた。もちろん肉眼では見えないのだが、穴が開いたことがわかった。目に見えない劇場の幕がするすると上がったような感じでもあった。そしてその穴から暖かい風がごうごうと吹いてきた。音は耳では聞こえなかったが、わたしの全身をすっぽり包みながら、ものすごい強さで圧倒した。

サイババは面接の室からはまだ出て来られない。わたしは大勢の人の海の中に座ったまま、倒れまいと必死に堪えていた。あたりを見回して、自分だけに起こっているのかどうか確かめてもみた。誰も感じている人はいないようだった。風が確かに吹いているのに、だれの髪もそよいでいない・・わたしは黙ってサイババの風を受けていた。サイババが祝福を送って下さっている・・その心地よさは、何の不安もなく母の腕の中ですやすやと眠る赤ん坊のやすらぎだった。風はしばらくすると弱くなっていった。だがこの暖かなものに包まれている感覚は、カナダに帰っても二、三週間続いた。

その夜は体中の細胞が熱くさざめいて、なかなか寝つかれなかった。そして眠りに落ちる直前、眉間の中央に、まるで朝に目覚める時のように、目がぱっちりと開くのを感じた。わたしはうとうとしながら、それがいわゆる第三の目だということを理解した。不思議でもなんでもなかった。目からは冷たいさわやかな風がすうすうと入ってくる。(略)

なんと穂積氏は、サイババの側に行ったことで、第三の目が開いたそうだ。こんな記述を読むと、おかしい人なのではないかと思うかもしれないが、穂積氏は、文章を読む限りきわめて常識的な人である。

というわけで、例を挙げるのはこのへんでやめるが、神社仏閣やパワースポットに行くのもいいが、会いに行ける聖賢がいるのであれば、それらの人物に会いに行ったほうが霊的なご利益というか、よい影響を受けられるようである。

そういった人物が今どこにいるのか?と聞かれると私もよくわからないが、何かいい機会があれば行ってみてはどうだろうか。