当たった予言の見事な振る舞い

2019年の8月くらいに某所で予言を聞いた。

その内容は大体、以下のようなものだった。

日本と敵対している国で人工的に作られたものが、世界に大きな災いをもたらす。それはもう既に出現しているが、今現在は気づかれていない。

後から振り返れば、これはコロナウイルスについて言っていたのだなとわかるが、当時はこの内容に皆目見当がつかなかった。

日本と敵対している国といえば、中国、北朝鮮、韓国あたりが思いつく。

当時、韓国との間には、ジーソムニア破棄の問題があった。しかしこれが世界に影響するとは考えにくい。

中国に関するニュースでは、イナゴの大群がアフリカから迫っており、食糧難を引き起こすかもしれないという話があった。ひょっとすると、この事が大きな災いを引き起こすのかもしれないと考えた。

予言には具体的な時期についての言及が無かったし、その後、大きな災厄にも出逢わなかったので、私はこの予言を失念していたが、コロナウイルスが問題となり(2019年12月~2020年1月)、話がどんどん大きくなってから(2020年春頃)、予言はこれについて書いていたのかとイライラした気持ちで認めることになった。

というのも、私は株式投資をしているから、当たりそうな予言には注目していて、あわよくば、超自然的な情報も利用して儲けたいのである。が、私は予言を聞いていたのに、それを全く活かせず、コロナによる株価下落でただ単に損をしたのだった(日本は2020年1月末まで月間100万人ほど中国人観光客を受け入れていたが、死者は出ていなかった。コロナウイルスは日本人にとって大した問題でないことは明らかだった)。

この予言の素晴らしさは、未来の出来事をきちんと予見できている点と、予言を聞いた人間にその内容を気取られていない点のバランスが均衡しているところだ。

予言としての立ち居振る舞いが綺麗だ。

霊的に進化した存在であれば、人類全体の未来や、個人の未来について、正確な予見ができてもおかしくない。しかし、その予見があまりに具体的であれば、その予言自体が我々の経験に不自然な介入を行ってしまう。

我々は経験を通して様々なことを学ぶために受肉しているので、予言が経験を歪めるのは良くない。だから、未来についての予言は、場所・内容・時期について曖昧さを持たせたまま、人間に開示された方が良い。

しかし、曖昧過ぎて、何について予言していたのか、識別できないのもよくない。また、時期を指定しない場合、あまり遠い未来の出来事について予言するのもよくない(そういった予言があったことを忘れてしまうから)。

上記の予言は、予言が開示された時期と内容から、中国発のコロナウイルスに関するものだと、後からならきちんと理解できる。しかし、事前には何を予測しているのか具体的にはわからないため、人々の経験に介入していない。私のような投資家(?)に利用されてもいない。

予言を事前に聞いた人間がいるのに、経験は経験として、甘受される。しかし、予見されていたことは後になってはっきりと分かる。

このような、特定の不幸が起こると示唆しながら、予言の聞き手に不幸を回避させない予言になんの意味があるのかと考える人もいるかもしれない。

しかし、意味はあるのである。予言の聞き手に謙虚さをもたらすという意味が。