神の約束は勧善懲悪ではなく

和田憲治氏が地政学アメリカ通信の動画の中で、「歴史の本を読んで、あんなに人種差別に反対していた日本が、人種差別をしまくっていたアメリカに第二次世界大戦で負けて、神はいないなと思った」という意の発言をしていた(どの動画での発言か探したがわからない・・)。

チベットやウイグルでの民族浄化が終わらないことなどを見ても、同様の感覚を抱く人は多いのではないだろうか?

近代の歴史を見ても、随所で悪が勝ちまくっている。

私は最近、毛沢東の評伝を読んでいるが、毛沢東にはたくさんのライバルがいた。ソビエトが作った中国共産党には、優秀な人間、人望のある人間、残酷な人間、いろいろなリーダーがいた。それらのリーダーが派閥争いをする中で、最も純粋な「悪」に見える毛沢東が綱渡りのようなきわどい状況を経つつも、結局は天下を獲ってしまった。

中国共産党の中には、理性的な人間、情け深い人間、困窮する人々の事を思って共産党に入党したリーダーがいた。にもかかわらず、彼らは全員毛沢東に負けた。毛沢東の評伝を読んでいると、勧善懲悪を行う神はいないと強く思える。

しかし、本来、神(?)は現世での勧善懲悪を約束していなかったのではないか。現世において、神がやってきて、あるいはその力を働かせて、個別の悪に見えるものをいちいち叩きに来るとは、そもそも言っていない。

因果応報やカルマの法則はあっても、それは来世や過去生を含む長い時間の中で実現するのであって、今、見えている社会において悪事を為した人間に報いが与えられるわけではない。

ヒンドゥー教などでは、現代はむしろ悪が栄えるカリ・ユガの時代だというのがコンセンサスだ(多分)。wikipediaから引用するとカリ・ユガの時代の特徴は下記のようである(わかりやすく言葉を一部修正した)。

  • 支配者は理性を欠くようになり、不公平に税金を徴収するようになる。
  • 支配者はもはや崇高であることや、被統治者を保護することを義務だと思わなくなる。彼らは世界にとって危険な存在となる。
  • 人々はコムギやオオムギが主食であるような地域を探し、そこに移住を始める。しかしその一方で、彼らは自分たちのものを好んでいるので、そのために自分たちの生活を犠牲にする。
  • 七つの大罪や復讐が普通に行われる。人々はお互いに強い憎しみをあからさまに示すようになる。
  • 法(ダルマ。道理や正義のこと)は忘れ去られていく。
  • 人々は正当化できない殺人について考え始め、そしてそれが悪いことだと考えなくなる。
  • 性欲は社会的に容認されるものと見なされ、性行為こそが人生において最も必要なことであると考える。
  • 善意が衰えていき、犯罪が飛躍的に増加する。
  • 人々は直後に破るためだけに誓いを立てる。
  • 人々は酒と薬物に溺れる。
  • 男は自分たちの仕事のストレスが大きいことを自覚し、仕事から逃亡するためひきこもる。
  • グルはもはや尊敬されなくなり、彼らの弟子たちは師を痛めつけようと試みる。彼らの教えは侮辱され、カーマ(官能的な欲望)の信奉者は全ての人間から心の制御を奪い取る。
  • 僧侶は学ばれることも尊敬されることもなく、武士・軍人は勇敢ではなく、商人は公平でなくなり、労働者は正直でなく、彼らの義務や他の階級の人々に対して謙虚でなくなる。

世の中に悪がはびこるのを見て、「神はいない」と嘆く人もいるが、聖典は最初から悪が栄える時代の到来を予告していた。「勧善懲悪を実行しに誰かを使いにやります」とは約束していなかった。

インドの叙事詩「マハーバーラタ」の中にはサイババの転生を予言したような一節がある。

邪悪がはびこり、使命の時が来る時、私は想像を絶する人間の姿をとる。罪の時代、カリ・ユガの時代に、法と正義を護るため、私は黒い肌をした神の化身となり、南インドの徳高い家庭に生まれるだろう。(略)

彼は徳の力に輝き、世界に平和と秩序を回復する。霊的な人々に囲まれ、新しい真理の時代を開く。人は、この化身の行いを模範とし、その人々には平安と繁栄がある。(略)

青山圭秀著「サイババの真実」より

邪悪がはびこる時代に神の化身を遣わすとは言っている。しかし、悪を根絶するとまでは言っていない。

では、何を約束していたのか?東西の宗教・聖典に共通している神の約束(?)は、「霊的な知恵を求めればそれは与えられる」という事である。

キリストは「求めよ。さらば与えられん」と言った。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

インドでも同様の事は繰り返し語られている。霊的な師、霊的な知恵は、それを求める人に準備ができた時、必ず届けられると。

信者が神にその人生を委ね、従うならば、神は彼の人生の最も細部に渡るまで面倒を見、責任を負うのだ。(サティア・サイババ)

グルは、必ずしも現実の具体的な形をとって現れるとは限らない。グルは、より高い想念のインパルスを促し、書物や友人、あるいはさまざまな出来事を通じて人を導く。それらは一瞬にして真実を解きあかす。こうした気づきがあれば、後はほとんど求道者次第と言える。グルは、それを見ていて方向を指し示すだけである。(サティア・サイババ)

ダルマは自ら求める人にその姿を現す。

生徒の準備が整った時に神様は先生を、地球の裏側からでも連れてくる。

ヴェーダは自らを実践してくれる人を探し出してでも、その人の意識の中に入っていく。

では、この法則は生きているのか。本当に霊的な師や知恵を求めれば、与えられるのか?

私は与えられると思う。書籍とインターネットによって瞬時に多量の情報にアクセスできるこの世で、その人に必要な霊的な知識が与えられないはずがない(すぐに与えられるという意味ではなく、いつかは正しい知識にたどり着けるという意)。

勧善懲悪はそもそも約束されていなかったが、「求めよ、さらば与えられん」の法則は現代でも生きていて、これを通じて、人は神の存在をおぼろげに感じられるのだと思う。