コロナ禍開始以来、我々は「公益のため」を名目に、さまざまな譲歩を重ねてきた。譲歩とはつまり、○○をしない自由の放棄である。
- マスクの着用
- 建物入室時の手の消毒
- 外食の制限
- 外食時の会話の制限
- コンサート・イベントの制限
- 飲食店での飲酒の制限
- 他県への移動の制限
などについて我々は協力し、自由を放棄してきた。これらは「お願い」として要請されたものから、後には法的な効果を持ってしまったものまで様々だ。
私は手の消毒もしないし、マスクも野外ではめったにしないし、緊急事態宣言中も普通に他県に旅行に行っていたけれども、多くの良心的な人たちは、上記の要請等に従った。
その意図は、公益のため、社会のためということで善良なものだったのだろうが、それで社会が良くなったかといえば、為政者にさらに自由を手放すように付け込まれるようになっただけである。
我々が為政者のお願いを聞く→為政者はさらにハードな要請をする→我々は公益のためということで従う→為政者はフリーハンドな法律を制定して(特措法のこと)さらに気ままに禁止事項を増やす
というように悪循環になっている。
場合によっては、我々は公益のために一定の自由を放棄したほうがいいこともあるのだろうが、インフルエンザ程度の死者数の病気のために、様々な自由を放棄して、政府や自治体に協力したのは間違いだっただろう。
自由の譲歩は、「普通の生活」を取り戻す手段になっておらず、さらに不自由な生活をもたらし、延長し、強化しただけだった。
また、この程度の病気で、こんなにも譲歩してしまうことが慣習になれば、これ以降もしょぼい病気や災害で、理不尽な譲歩をするのが当たり前になってしまう。
我々は「公益のため」、「みんなのため」という理由付けをもっと拒否するようにしたほうがよい。その内容を精査し、本当に協力するほどのことなのか疑ったほうがよい。
あなたが言う「公共」とは具体的に誰のことなのかと問うた方がよい。今回のコロナ禍では、公共の正体は、体の弱い人(高齢者、基礎疾患ありの人)とメガファーマ(ファイザー、モデルナ、アストラゼネカ)で、大多数の日本人は、公共の中に実は入っていなかった。
公益のためと言われて協力をしないと、罪悪感を感じるかもしれないが、無視する知性を身につけるべきだ。
例えば、
人は必ず死ぬが、死んでも終わりではなく、魂(意識)は存在し続ける。一定の成長段階に達するまで、魂は輪廻転生する。死後の世界は、現世よりも過ごしやすい。我々は学びや魂の成長のために現世にやってきた。だから死そのものを極端に忌避する必要はない。
このように考えれば、公共のため詐欺に騙されにくくなるのではないだろうか?
公共の利益が名目でも、やすやすと協力しないほうがよい。我々は、公共の利益よりも個人の自由にもっと目を向けた方がよい。日本人はついつい公共の利益のためを優先しがちで、それが社会の閉塞感につながっている。