コロナウイルス対策をめぐって、各人が各人の意見を出し、それが微妙に食い違っていて、百家争鳴の様を呈している。
いろいろな意見があるなかで、下記の想定を基に書かれている意見はおかしいと思う。
コロナウイルスによる死者を特別視する。
コロナウイルスによる死者数や感染者数の増加に一喜一憂している観があるけれども、コロナウイルス対策として経済活動を停止させれば、破産や解雇によって、一部の人には死がやってくる。死までいかなくとも、普通に働いていた人が生活保護受給者になってしまったり、ホームレスになってしまう。これらは、死と同等とまではいかなくとも避けたい事態である。
しかし、それらを無視して、コロナウイルスによる死だけを特別視して、それだけを避けようとして他の要因による不幸(経済不況による死、転落)を無視するのはおかしい。
↓失業率が1%増加することで、日本では自殺者の数が2520人増えるという意見もある。コロナウイルスによる死者は、現在、日本では100人未満である。
相関しているでしょ。
相関係数は+0.8821男性の場合,失業率が1%上がると,10万人あたりの自殺者が4.2人増える。
男性人口を6000万人とすると,失業率1%アップで自殺者が2520人増える。失業率2%アップで5000人,4%アップで10000人増えるってこと。
失業率1%の重みを知るべし。 pic.twitter.com/X6RZFcLLqv
— 舞田敏彦 (@tmaita77) March 29, 2020
コロナウイルスとの対峙は、「人類とコロナウイルスとの戦争」であると語る論者もいるが、多くの人は日々の糧を得るために経済活動という戦争をしているわけで、コロナウイルスと戦うためにこの闘争をやめるわけにはいかないのである。
コロナウイルス拡散につながる行為を特別に罪悪視する。
日本では毎年肺炎で10万人以上の人が死んでいるが、だからといって人に風邪をうつしてしまうかもしれない事をそれほど避けたりはしない。風邪が完治するまで自宅待機するわけでもない。
肺がんになる可能性が高くなる喫煙を誰もとがめたりしない。体に悪い食事をするのも自由である。
不要不急な外出を避けず、コロナウイルス拡散につながるかもしれない行為だけを特別に罪悪だとみなすのは変である。
欧米の状況と日本の状況を同一視する。
イタリアやスペインのように日本もなるぞ!と警告する意見もあるが、同じにはならないだろう。BCGワクチンによるものか、すでに免疫を持っている人が日本人の中に多いのかわからないが、100万人当たり死者数などで比較した場合、日本は圧倒的に死亡者が少ない。
BCGワクチン接種国は、そうでない国に比べて、明らかに死亡者が少ない。これを無視してコロナウイルス対策(経済活動を自粛するかどうかなど)を語るのは変だ。
専門家のレポートを鵜呑みにする。
専門家がレポートを出して、「何も対策をしなかった場合に死者が○○万人になる」などの予想を出しているが、これらは実際の状況よりも悲観的な想定に基づいて書かれている可能性がある。
専門家は基本的に保守的に予想を出す。なぜなら楽観的な意見を出したせいで、人がたくさん死んで後から責められるよりも、保守的な予想を出しておいた方が専門家の保身につながるからである。
だから悲観的な専門家のレポートを鵜呑みにするのもおかしい。彼らの意見は割り引いて聞かれるべきである。
コロナウイルスで死ななければ、その人は永遠に死なないかのように語る。
今回のコロナウイルスによる災厄を避けられれば、その人が永遠に生きられたかのような想定で物事を論じるのは変だ。人は必ずいつか死ぬからである。
志村けん氏が亡くなったが、平均寿命をもとに考えれば、今回死ななくても、10年以内に亡くなっていた可能性が高い。
死が絶対的な災厄であるかのように語る。
「死」が何を意味するかは、人それぞれ違う。死後の世界を信じる人にとっては、外的要因による死は、解放であるかもしれない。誰もが、死をなんとしても避けたい究極の不幸だと考えているわけではない。
それなのに死をおどろおどろしいものと描写するのは変である。死が恐怖の対象であるとは限らない。